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草花を楽しむ、童謡に会う
散歩しながら新聞を
考えた。
15日の沖縄の新聞、1面に下地幹郎の「県内移転、基地分散論」(昨日ブログに添付)、またかと、あきれる。シュワブ陸上案は06年日米政府が「喧嘩」劇場演じた。この移転分散論は高江までかかわって来ると書いた。玉城デニー議員が高江で動いたようだ。
沖縄防衛局は沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団の要請全て拒否、強圧的姿勢に出た。自公政権より悪い。おそらく、名護市に対しても、野中広務自民幹事長、岡本(元沖縄大使)が連日電話攻勢をかけたような事態が起こっているかも知れない。沖縄の闘い腹をくくる必要ありそうだ。評価書の公告縦覧のための動きで大物の来沖あるかも知れない。
花を楽しみながら
リズムの散歩
大北小学校の塀に桑の実がついた。三木露風の「赤とんぼ」が唇から出てきた。

作詞:三木露風 作曲:山田耕作
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を
小篭に摘んだは 幻か
十五で姐やは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた
私の世代はミミズもネズミも食べた。「ウサギ美味しい かの山」と歌っていた。ウサギ
も鶏も食べるための家畜。沖縄にはウサギは山にいない。屋敷で「追う」が「かの山」で
はない。
三木露風「負う」も、トンボを「追う」。「負う」」背中でおんぶされての意味であろう。凄い記憶
力だと思う。
私の幼い頃。「クワムヤー」(子守役)がいた。専業主婦なんて考えらない時代、よその子
どもたちに子守をお願いする。私などは幼稚園から子守役で妹おぶった。
背中のお尻に温かいものが流れ泣いていた。「大きな鷲が子どもをさらう。人買いがさら
う」と脅されていた。
大正期までは15で嫁に行ったのであろう。沖縄では女の子の「13ユウエー(祝い)」
は盛大であった。
雷には桑の下に隠れろとも言われた。畑と畑の間の境界線は桑の樹であった。養蚕は戦
前まで沖縄でも重要な産業であった。
赤とんぼと桑の実は季節が違う。
桑の実とシルロード。化学繊維の時代、桑の木とシルクロード結びつけるには無理があ
るか。サンシンの材料としてもクワーギ(桑)は貴重だと聞く。また、三木露風の弟子、大宜見村村政改革同盟オルガナイザー上里春生(1月28日ブログ)を考えていた。
北原白秋
「ゆりかごの歌」
散歩をしていると、まだ、青いビワの実に出会った。

ゆりかごの歌を カナリヤ歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
ゆりかごの上に ビワの実が揺れるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
子守をしながらよく歌った。
ビワの木は柔らかくて折れやすい。よほど、大きなビワの木であったろう。
白秋は大人になってもバーヤに生活の面倒を見てもらっていた。啄木日記明治42年4
月7日日記に「北原のおばさんが来た。そして彼の新詩集『邪宗門』を1冊貰った」と記
されている。白秋の童貞を廓に捧げさせたのも啄木である。「お坊チャン」白秋。啄木も
「お坊ちゃん」だが、二人の詩は異なる。啄木の日記は、この頃、ローマ字で性の描写は
少なくない。啄木の心は「鉄の心」であった。その犠牲者は沖縄の「明星」歌人山城正忠であった。(明
治42年4月4日日記)
散歩で
出会った花たち



(続きー「平和新聞」(コラム「宝の海通信10)