スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

お帰りなさいー沖縄の太陽

沖縄の太陽
 1955年3月11日、米軍は銃剣とブルドーザーで伊江島真謝を襲った。 同年1月13日、アメリカの人権団体から沖縄の米軍の野蛮な行為を告発する手紙が届き「朝日報道」と言われている。
 この記事に心を動かされ伊江島と伊佐浜、そして、沖縄の青年を励ました女子高校生がいた。沖縄の天使ともいわれた。伊江島タッチューに「沖縄の太陽」碑が建つ、1955年1月1日である。
 この沖縄の太陽碑に込められた少女の愛と沖縄の青年群像を描いたのが「『沖縄の太陽』物語」である。(1995年7月)


IMG_20100307152100.jpg
(15年前に書いた「沖縄の太陽物語」)

 伊江・伊佐浜の闘いは
  沖縄の抵抗の発火点・導火線
「銃剣とブルドーザー」「島ぐるみの闘い」の1955年、56年、沖縄の青春の心と沖縄の運動に大きな影響を与えたのは黒田操子(現菊川)の数々の行為であった。
 伊江島「わび合いの里」では毎年、5月に阿波根昌鴻偲ぶ会が行われる。今年は、伊江小学校6年生が「沖縄の太陽」を芝居にするという。
 黒田さんが家に招かれているので、私も6年ぶりに同行することになった。6日11時カーフェリー城山に乗った。伊江港では小学校生たちがエイサーで迎えてくれた。



008_20100307143836.jpg
 (フエリー城山から、 歓迎のエイサー)
 城山にて
左が菊川操子、右黒田和子(妹)エイサーを背景に撮りました。


014_20100307143853.jpg

 伊江小学校の子どもたちと記念に撮りました。


049_20100307143904.jpg



 芝居が終わって
   55年前 18歳を語る菊川操子
 「宝の海」で沖縄の歴史を語ること少なくありません。1956年までの沖縄の戦後、在京新聞の沖縄報道、1954年14記事、1955年94記事、1956年501記事である。今日の沖縄報道(内容に問題あるけれども)と比較してみてください。特に、1955年は黒田操子と関係して沖縄報道が進み、1956年の「島ぐるみの闘い」によって、大手新聞の沖縄報道は増える。「本土留学」「本土集団就職」で沖縄の青年たちが「異邦人」として受けた無知な屈辱は、体から消えることはないであろう。
 黒田操子の好意に「大和の心」を見た。
 子どもたちの芝居は原作以上の出来栄えで会場は涙の洪水であった。明日は芝居の場面を紹介します。
 人の痛みに共感し、具体的に行動にあらわす原点は日光疎開でのいじめであった。いじめられている伊江島・沖縄への一人の少女の行為をさらに受け止めて支える人々の純な行為。菊川操子は淡々と語った。現在、72歳、老いても同世代の老人介護の日々の活動で、伊江から、沖縄のどこも寄らずに東京東村山市に戻った。多くの老人たちが菊川操子を待っている。


152.jpg

  (芝居が終わって 18歳の青春を語る菊川操子)
「お帰りなさい」の込められた
   伊江・真謝の心
 芝居が終わって、伊江教育委員会・真謝の人々が交流夕食会を模様してくれた。二男順平夫婦も駆けつけてくれた。芝居をした子どもたちも来てくれた。55年前、真謝の公民館で黒田操子を迎えた1955年、1月1日の夜の歌や踊りを披露して再現してくれた。
 後ろ右から2番目の方は当時小学校2年生、私の「沖縄の太陽」にはp137の写真に出て来る。操子さんは「初恋の人」と言いてみんなを笑わし、操子さんの手を離さなかったようだ、離すと希望が逃げていくようであったと、涙がジーンときた。今、修学旅行の民泊をしているようで、原点は「沖縄の太陽」との出会いで、社会への一つの奉仕だという。
 横断幕の「お帰りなさい」に込められた意味に、伊江島の人たちの寄せる心が解る。


228.jpg
  (交流会終わって)
 太陽の心を
  子どもたちが受け継ぎー
 脚本を書き、全ての企画をしてくださった内間常喜(伊江村教育委員会生涯学習課長補佐)は次のように述べた。
 「伊江の子どもたちは、15になると島を離れる(高校進学)。この芝居をすることによって人間としての大切な心、そして逆境の立った時、伊江のシンボルタッチュウーのを思い出し、生きる力を呼び覚ますであろう。」と語った。
 菊川操子も年を老い、私も辺野古の新しい展開と体に爆弾を抱え、最後の伊江訪問かもしれない。
 伊江島を去る。車のワイパーにハンカチを結んでワイパーがいつまでも手を振っていた。


021_20100307170256.jpg
 (伊江24時間を終わって)
(『語り継ぐ戦中・戦後Ⅱ』(労働旬社 歴史教育者協議会)「伊江島に建つ沖縄の太陽碑」収録
スポンサーサイト
プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。