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辺野古散歩


辺野古散歩
 午後から辺野古散歩に出かけました。北東の風が吹き少し肌寒い。炭が焚かれていました。
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 海兵隊のゴムボート訓練が始まりました
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 2時30分ごろ、2台の水陸両用戦車出てきました。
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 沖縄民医連新任職員研修
  約30分の話をしました。
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啄木を沖縄から見る(6)
 「おれは北だ、貴様は南だ」の盟約
 私は、啄木と正忠が会う前の次の啄木の歌を、まだ、会わぬ正忠を連想した。
  
 はるかなる海のかなたの島に似て相見る日思いつかれぬ
     (『心の花』明治41年7月号)

啄木は『明星』で南の海を詠い活躍し始めた正忠を意識していた。それは啄木
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたわむる
などの海の歌が生まれる時期と重なる。
 啄木は正忠を怒らしたり、からかったりすることが好きのようで、初対面から正忠を怒らしている。

「一座の中に、どうみても気に食わない男が一人いた。・・それを幹先生や周辺の人たちが、いやにちやほやしていた」「何かしら犯しがたい風格とただならぬ気魄のあるのを私も見逃さなかった」「その男が突然私に向かって」
 「山城君。君のくにじゃ、今でも人が死んだら喰らうのか」と飛んでもない質問されて、一時にカッとなった私は「馬鹿医言え、そんなことがあるか」とハネ返したのを与謝野先生がうまくとりなされた事があった。その場ですぐわかったが、それが誰であろう。わが石川啄木の奴だった。以来私は急速に彼と親しくなり、おれは北だ、貴様は南だ、ひとつ、大いに提携して、東京の奴らを押さえつけてやろう。という、盟約まで申し込ませる仲になった」(「私と啄木」『月刊琉球』昭和12年6月号)

 啄木ローマ字日記は、啄木の人生観含めた自己革命とも言える。啄木は北海道に残した家族を呼び寄せ、「喰らうべき詩」などで、自虐的な人間否定、荒廃した心のすさみを克服してゆきます。
  「われわれの日常の食事の物のごとく」
  「詩人はまず第一に『人』でなければならぬ」
  「第二に『人』でなければならぬ」
  「第三に『人』でなければならぬ」
    (「喰らうべき詩」)
 そして、啄木「奇跡の年」明治43年を迎えます。琉球の文芸も琉球の伝統的文芸を目指すものと「琉球の文芸復興」とする近代文学の相克の年であった言われている。『スバル』などの文芸誌に琉球を鮮明に詠う新しい人々が登場し正忠も琉球の鮮やかな原色の色彩詠む。琉球の文学青年たちにとって「8886」の琉歌から「57577」への転換であった。
 
 琉球の白き墓場をあいびきの家とし酒をの飲む家とする
     (摩文仁朝信『スバル』1910年7月号12首)
 
  夕さればかの色町の三味の音がわれの情けをもてあそぶかな
  三味線のはしやげる音とものすごき波の音が枕にきたる
      (上間正雄『スバル』1,910年月号)
 琉球の文芸復興は、また、琉球を棄てることでもあった。

 啄木の歌は「東海の小島」の日本の地理的空間から
   大海の
   その片隅につらなれる島々の上に
   秋の風吹く
 と広がってゆくと同時に、日韓併合、大逆事件を背景に国家論、労働者論へと思想的深化を遂げ、明治45年は東京都電のストライキで開け、啄木の命は風前の灯ながら、新しき明日の担い手を「国民が団結すれば勝つという事、多数は力なりということを知って来るのは、オオルド・ニッポンの目からは無論危険極まると見えるに違いない」と記す。

 啄木の死とともに明治は終わる。その前年、正忠は文学的野心を捨て、那覇に帰り、歯医者として人生を歩むとともに、啄木の歌を通して、大正・昭和期の若い文学者を育ててゆくのであった。
 (正忠は書においても沖縄三蹟と言われ墨絵にも非凡な才能を発揮)

  琉歌については   3月8日「世界女性デー」「宝の海」日記に
 琉球の女流歌人恩納ナベと遊女吉屋チル
 労農党で活躍する正忠をメモしています。
http://teruo024.blog47.fc2.com/blog-date-20120308.html

QABニュース
嘉手納町議会 即応訓練中止など求める
http://www.qab.co.jp/news/2012040534798.html

「地図の上黒々と・・」からPAC3の動きに


 物騒な沖縄から
  東アジア友好条約への道を求める
   (参考昨日のブログ)

 北朝鮮の「人工衛星」(ミサイル)の発射めぐって、田中防衛大臣「破壊処置命令」を発動し、沖縄本島(2か所)、石垣、宮古にPAC3を緊急配備、移動作戦をさせて危機を煽っている。
 米軍がPAC3を配備したときに沖縄の空を守るが口実であった。米軍の動き見えず、自衛隊が絶好の機会と出動、横田基地の日米共同指揮の作戦で動いていることに注目、防衛大臣とメデイアの報道は、直接ミサイルが沖縄めがけているような錯覚を与えている。

PAC3でロケットの落下物、落とせない。無意味な配備であるが、イージス艦・MD防衛戦略の強化訓練と見るべきだ。そして、日米共同指揮の訓練と見る。

 アメリカ軍のPAC3動きが見えないのは、アメリカは中国との経済戦略が背景にあり、それは、また、在日米軍が日本防衛のためではないということを証明する。

日本のすべての空港、港、国道を米軍・自衛隊が自由移動・訓練をする前兆と言える。
(追記ーさっそく、フオートジャーナリスト森住卓氏、羽田空港で米軍機撮影、米軍の大型輸送機C17と思われる。600mで着陸可能、辺野古新基地配備可能と準備書意見書で指摘している。私の危惧が現実になった?情報では春の嵐で緊急着陸とも・・それでも!)

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(写真提供 森住 卓)
 
追記
 海兵隊の辺野古の動きは、こちら「辺野古浜通信」(4月4日)から
http://henoko.ti-da.net/
 市民インタビューで共通していることは『話し合いで解決」で、昨日の、日米平和友好条約と共通する認識を示している。東アジアにとって求められることは「東南アジア友好条約」(TAC)の道を目指すことだ。

 こんな時、悠長に啄木を書いているが・・・でも

  地図の上
  黒々と墨をぬりつつ
  秋風を聞く
と、日韓併合に心を痛めた啄木であった。今、と重なるのです。


   主権・領土保全等を相互に尊重
   外圧に拠らずに国家として存在する権利
   締約国相互での内政不干渉
   紛争の平和的手段による解決
   武力による威嚇または行使の放棄
   締約国間の効果的な協力
 
 日本の「敵地先制攻撃」論、中国脅威論、「破壊措置命令」は、アジアの人々にとって脅威となり、沖縄が「悪魔の島」に再びなりかねない。

QABニュースレポート
PAC3配備 着々と進む
http://www.qab.co.jp/news/2012040434776.html



啄木没100年
啄木を沖縄から見る(5)
 正忠絶交宣言と啄木ヘナぶり歌

 沖縄から日本が見えるという。
 真教寺の啄木歌碑から啄木が見えるとは言わない。
 啄木は沖縄に来たことがないが、「新しき明日」の歌碑が建つ。確実に何事かを示唆している。啄木は文学者であり、また、評論家として「時代閉塞の現状」などで明治国家の解剖を試みて、「明日のの考察」(「我々全青年の心が『明日』を占領した時、・・時代に没頭しては時代を批判する事が出来ない」)と国家の問題を結合した。

 啄木が上京して1年が経った。文学的野心は惨めで、金田一の庇護の下で、北原白秋の処女詩集『邪宗門』に衝撃を受け、日記がローマ字になる。
 ローマ字日記は「情誼の拘束」、与謝野夫婦、金田一などからの自立への葛藤、「鉄の心」で自己分析を試みる。啄木は与謝野夫婦などに家族のことなど話していない。
 
正忠の追悼文を見る。
  「その時から特に心安くしてくれたのは君であった。・・私は直ちに薄命の相があることを直感した。蒼ぶくれた色艶の悪い色合が常に悲しげに沈んでいる。その後会う度に私は君の顔色をいたましく思った。かくて段々相親しくなって君が本郷の下宿にいるときには、度々訪ねて君の気焔にあてられたものだ。また、ある時などはしんみりと悲しい物語に夜をさらしたこともある。・・自分の故里にいる若い妻の話なぞ持ち出して係累のない私の生活を羨んでいた」
 「しかし、口ならず何かの際で君の一言が気に障り『君のような惨酷な人にはもう2度と会うまい」という捨て台詞を残して憤然席を立ったことがある。』

 啄木日記によれば、42年1月7日、啄木と正忠は国木田独歩論をやっていて啄木は「哀れなる感情家」と記していて、正忠は後に「啄木に文学論では負けたが、酒は俺が強かった」と回想している。4月4日、啄木は妻節子からハガキを受け取っている。おそらく上京を促す内容であったと推測される。
 そこに、正忠がいつものように酒を充満させてきた。啄木は「情誼の拘束」から「鉄の心」へと自己洞察を深化させていて「山城君、歌は「悲しき玩具」だ、歌なんてやめてしまえ」とおそらく、与謝野鉄幹などの批判まで発展したのではないか。
 正忠の絶交宣言となる。啄木は「しんみりと悲しい物語」を話せる正忠を失う。
 だが、啄木の頭の中から歌が泉のように湧き出てくる。『スバル』5月号「莫復問」70首であり、ヘナぶり歌と言われ、『一握の砂』への収録は少なくない。

 啄木「鉄の心」
 「去年の暮から余の心に起こった一種の革命は、非常な勢いで進行した余はこの100日間を、常に武装して過ごした。誰彼の区別なく、人は皆敵に見えた、余は、一番親しい人から順々に、知ってる限りの人を残らず殺してしまいたく思ったこともあった。親しければ親しいだけ、その人が憎かった。・・・鉄の心をもって、泣かず、笑わず・・人のなしえないことを平気でなさなければならなかった」(4月10日)

  ヘナぶり歌と正忠
 真教寺啄木歌碑から「莫復問」70首を見ると、啄木「鉄の心の1号犠牲者」正忠を据えてみると面白いと思っていると。碓田のぼるの研究に会う。
『一握の砂』には収録されていませんが、碓田は次のヘナぶり歌を
   君の眼は万年筆の仕掛けにや絶えず涙を流して居候
     (『スバル』5月号)
 啄木が正忠をからかった歌だと書いている。
   なみだ涙その日のごとき涙もてあらいし心戯けたくなりぬ
     (『スバル』5月号)
 この歌を啄木日記「哀れなる感情家!」(42年1月7日)と重ねて観る。
 ピストルや銃に関する歌も正忠のピストル自殺願望症候と重ねると面白いと以前に述べている。
   琉球のたわれめよ
   悲しき玩具よ
   わけもなくいたましき吾の魂
   (山城正忠『5人』大正3年)

赤旗
米軍再編 外相、負担増否定せず
井上議員 大盤振る舞いを批判

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-04/2012040401_04_1.html

4日第2信ーPAC3配備


PAC3配備 防衛強化“地ならし”
琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189569-storytopic-3.html
辺野古も統合案も拒否
 沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-04_32042/

琉球新報社説
日米協議機関 本気で地位協定改定を

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189548-storytopic-11.html

「怪物」が日本列島闊歩するときーPAC3配備の沖縄


 沖縄の深部の力

日本列島が荒れています。沖縄も昨晩は風が360度回り、雨嵐。
普天間・辺野古問題は年末からあれ、閣僚たちの沖縄詣でと「密会」が頻繁に行われた。週末「三顧の礼」も尽きたので、少し静かになるか。静かなる時、何をすべきかが重要である。
 この間、沖縄差別論、構図的差別論が大きくなった。であったとしても、私はこの国の形の根源である安保・憲法論に踏み込まない限り、現在の「時代閉塞」を克服、展望を切り開けないと思う。それは、私の観念的な論ではなく
 沖縄の深部の力である、県民が示している道である。
また、沖縄県は安保・基地問題を日米政府の情報に頼ることなく、県独自の調査・研究部署を発足させた。
 下記は、010年5月31日の毎日・琉球新報世論調査である。
 世論調査の基本部分を取り出してみる

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-162838-storytopic-1.html

 基地の認識
辺野古移設に反対との回答が84%に上り、賛成は6%にとどまった。県内移設反対の根強い県民世論が表れた形で、昨年10月31日~11月1日に行った調査から反対が17ポイント上昇した。反対した人の半数以上が県外や国外への移設を求め、「無条件撤去」の回答も38%に達した。

安保条約を日米平和友好条約へ
 海兵隊の沖縄駐留は「必要」との回答が15%にとどまり、「必要ない」が71・2%。米軍駐留根拠となっている日米安保条約については「維持すべきだ」との回答が7%と昨年調査の半分以下にまで減少した。
 一方で日米安保条約を「平和友好条約に改めるべきだ」との回答が55%と過半数を占めた。「破棄すべき」が14%、「米国を含む多国間安保条約に改めるべきだ」も10%あり、沖縄の基地負担に基づく現行の安保体制への不満が強い。
 辺野古移設に「反対」と答えた人に理由を尋ねたところ、国外移設が36%に上り「沖縄以外の国内」に移設すべきだとの回答(16%)を大きく上回った。辺野古以外の県内に移設すべきとの意見は4%だった。

 私の過去から
  現在の主張
世論調査後 管内閣が発足した。このころから差別論、構造的差別論が隆盛する。
 私は、96年9月訪米活動で、ペンタゴンにて「海兵隊撤退論」「海兵隊傭兵論」「日米安保を日米平和友好条約」へ、沖縄の抵抗権の正当性を唱えた。

 現在も同じである。世論調査は安保条約を変えるは79%になっている。これが沖縄民衆の「深部の力」である。佐藤優の構造的差別論は、官僚世界に留まり、この国の形に民衆の目が向くことを塞ぐ、百害あって一利なしの典型的論理である。
 市民投票で勝ち、軍民共用空港頓挫、日米合意破綻褪せた沖縄民衆の力、現在の到達点は、日本の安保体制で憲法が食いちぎられている根源にオール日本の世論を形成することである。

 戦略・戦術的にも今、重要な課題と言える。構造的差別論に留まるのではなく、この国の形に勇気をもって、愚直に挑み続けることだ。
 ウエッブ上院議員が沖縄県民の闘いを「怪物」と言ったが、「怪物」が日本列島を闊歩するとき、沖縄の「新しき明日」、日本が見えてくる。

啄木を沖縄から見る(4)ー没100年にあたって(4月13日)
 
啄木の友ー琉球の「明星」歌人山城正忠
 真教寺の「新しき明日」碑に出会い(92年)、沖縄を忘れる現代日本にあって、真教寺から啄木の作品を読み返してみるのも面白いであろう。
 沖縄戦・戦後史学習のみならず、文化学習でも、現代日本を問うて見るのも面白いであろう。与謝野晶子が謡う琉球青年の「烈しき」心、沖縄文化史をと思った。
 95年秋、沖縄の心、爆発する。沖縄文化も同じだ。

文学と歴史学門外漢は自由、無責任で、恥をかくのもいいものだと思った。琉球の明星歌人山城正忠を与謝野晶子と鉄幹は次のように詠い、正忠は立待岬の石川啄木の墓前で詠う。
  
大海の南の島に生ひでて抑えかねたり烈しきものを
正忠を恋の猛者ぞと友の云う戒むるごとそそのかすごと
       与謝野晶子
正忠は目出度く那覇に帰りけり今は酔うとも泣かずやあるらん
       与謝野鉄幹
   船を下りてまず函館に己が身を立ててし思う友の啄木
   この岬啄木も来て泣きけんと思うあたりにはまなすの咲く
      山城正忠『紙銭を焼く』
 そして、私は岩手、北海道、東京の啄木歌碑をすべて回る旅を行う。津軽海峡を啄木が渡った5月5日(八戸の友人たちにばれて5月6日)函館に着く。

 明治40年5月5日、逸民となった啄木は津軽海峡を渡り、「流浪」の1年を過ごす。翌年4月28日、鉄幹の新詩社へ転がりこみ、のち、金田一京助の庇護を受ける。思うに、明治の文学者にとって啄木は琉球を知りえるもっと近い位置にいた。沖縄学の父伊波普猶と金田一は東大言語学の同級生である。新詩社は自然主義文学などの台頭で勢いは失せていて、正忠が活躍していた。啄木は新詩社「番付け表」を残していますが、正忠は前頭6枚目で、明星終刊号に夏目漱石、啄木らとともに正忠の写真も掲載されている。当時、啄木が最も尊敬した文学者は島崎藤村である。藤村の「椰子の実」は、柳田國男の渥美半島の体験から生まれ出る。
 啄木は5月2日、森鴎外の主催する歌会に出ていて佐々木信綱と会い、佐々木の『心の花』に次の歌を詠む。
   はるかなる海のかなたの島に似て相見る日思いつかれぬ
     (『心の花』明治41年7月号)
 北の啄木、南の正忠、晶子を姉と慕った二人が会うのは7月16日である。
 啄木は正忠「達磨にように太っている」、正忠は「啄木は痛快な男」と言う。でも・・正忠は啄木の短命をも見ている。啄木を沖縄から見る、無謀かもしれないが・・・・・

北朝鮮利用した移動訓練
QABニュースレポート

PAC3配備 抗議の声の中 那覇に到着
http://www.qab.co.jp/news/2012040334750.html

ウリズンーテント村の昼下がりと赤旗主張


 ウリズンー昼下がりのテント村
  素敵な二つの顔(?!)

 帰りにテントに寄った。黄砂に薄曇りの陽光、風は北東から南に変わりながら少々強い。
安次富村長が豪快に寝ている。悪いと思いながら起こしてしまう。反対協総会の総括を反対協ブログに貼りつけるよう進言。運動方針を「沖縄県民の絶え間ない不屈の闘いと県民の知恵(ジンブン)を基本に巨ゾウ(米国)および虎の衣を借りるキツネ(日本)と対決しよう」と結んだ。
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 朴訥なYさん
 先日、「辺野古浜通信」にYさんの素敵な笑顔が載った。会いたいと思った。Yさんの昼寝のスタイルである。海上闘争、彼はカヌーでも、ヤグラでも思索するように寝た。

 辺野古の闘い、カヌーでの闘いになると、最初にカヌートレニングを行ったのがYさん、当時65歳か?瀬嵩浜から大浦崎~ウムケー島(久志沖)往復を毎日、闘いに入って、豊見城の自宅から毎日通った。朴訥ながら情熱的で、かみしめるように話、行動する。
 揺れるカヌーで食事を食べ、腕を組み仮眠、父親を戦で失い、戦後の沖縄の闘いを担ってきた世代、沖縄の闘いはYさんのような「朴訥な大衆」の結晶かもしれない。目立つことなく、目配り、黙々と辺野古の草刈など自分で仕事を探す人だ。

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啄木を沖縄から見る(3)
 啄木の友ー琉球の「明星」歌人山城正忠


 啄木ローマ字日記(鉄の心)
  啄木ローマ字日記は有名
  「僕は今日鉄のような心をもって人に対して接した、山城君は失望した」(明治42年4月4日)「君のような残酷な人にもう2度と会うまい」山城啄木追悼文)と絶交、4月22日、啄木は泉のように歌が湧きで「莫復問」(ヘナぶり歌ーふざ歌=歌は悲しき玩具)70首を発表する。
  「さばかりの事に死ぬや」
  「さばかりの事に生来るや」
  止せ止せ問答
     (『一握の砂』42年『スバル』5月号)
 を、正忠をも対象として見ることも楽し、この時期、啄木自殺願望、正忠はピストル自殺、啄木はカミソリ自殺、碓田のぼるは啄木問答歌について次のように書いている。

 『夜も昼もわずかにうめく』『恋しき人奪われしゆえ』
(正忠『明星』41年5月号、以後に多いのは「興味ある」)とし。
 
 『何故になくや』答えぬ「わが恋のまことならぬを恥じてわれ泣く」
  啄木(41年6月21日)
 正忠との関係を示唆している。
 
   故郷の山を思えば一茎の草の香りさへしたしまれつつ
        (啄木「明星」四一年一一月号)
   ふるさとの海を思へばまぼろしに見えつつ悲しき月夜の鴎
       (正忠『スバル』四三年九月)
 に啄木の影響見る。
 沖縄の明星歌人山城正忠と啄木との交流は『明星』(41年7月号・8月号)の社中消息および正忠「啄木追悼」文。「思い出話」「私と啄木」に見ることができる。絶交は明治42年4月4日である。
   尋常のおどけならむや
   ナイフ持ち死ぬまねをする
   その顔その顔
  (『一握の砂』「スバル」(42・5)
 モデルは「情誼の拘束」の金田一京助
   こそこその話がやがて高くなり
   ピストルなりて
   人生終わる
 (『一握の砂』「スバル」(42・5)

 のモデルを山城正忠(鉄の心の犠牲者1号)と見ると面白いと思う。
  
(次回ー晶子を姉と慕う啄木・正忠)

赤旗
主張
アセス「知事意見書」
新基地も普天間も許さない

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-02/2012040202_01_1.html

 体調崩して3年、現場に居ず、知人の失敗借金肩代わりして、妻の扶養に入り、妻の自由を束縛している。散歩のおり花をツマミ、妻にゴマ摺っている。8年辺野古に自由にさせてもらい、花でもと、感謝の気持ちだが??
 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買い来て
 妻とたしなむ
 (『一握の砂』の好きな歌)


http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189400-storytopic-3.html

「高江住民移転していただく」-田中防衛大臣は答えよ


「宝の海」巻頭文
啄木命日まで(13日)
 啄木没100年の歌ー4月13日
  啄木の友・正忠の関係メモ
  新しき明日がくるを信ずといふ
  自分の言葉に
  嘘はなけれどー
 『悲しき玩具』より
那覇市真教寺境内に建つ。建立者山城正忠ー沖縄啄木研究会


 田中防衛大臣への質問
 田中防衛大臣と玄葉大臣は米軍とこのような交渉を指示しているのか。
 
 高江住民を移転させる方針いつ、どの機関で決定したか

(現在はメモ記録)

 「高江の現状」ブログに、京都行動、2月22に日緊急行動、京都防衛事務所担当官と「意見交換」がユチーブで流れている。完全非暴力について「あれはダメ」についての反論は「沖縄の抵抗権」(「宝の海」16~17日に譲る)で応えるとして、以下について田中防衛大臣質問する。担当官の発言である。
 
「高江の住民に影響あることは間違いない」「住民の皆さんには移転していたいただく」
 
質問1、私は、住民移転の方針を初めて聞く。防衛省はいつ。どの機関レベルでの決定で正式に高江住民に伝えているのか(私が知らないだけなのか)、移転について具体的に個個に接触しているという事か。

質問2、移転を求める国内法をきちんと示す、移転賠償法含めて示すべきである。このような法は存在するのか。

質問3、MV22オスプレイを「間違いなく」住民上空を飛ばすということの宣言と受け止める。

質問4、嘉手納砂辺集落、三沢の「永劫の里」のようにMV22オスプレイを住宅上空飛行させて、住めない状態にして移転を余儀なくさせる演習をするという事か。そして、防衛省の土地に組み込んでゆく構想か。

質問5、それとも民主党政権特有のその場しのぎの方便か。

質問6、辺野古においても移転状況を作り出す演習を普遍化させるという事か。

 照屋議員、赤嶺議員国会での追及よろしく。

補足的質問、高江は人口160人余、以前は「たけ(高江)ーあらかー(新川)」と陸の孤島と言われました。東村でも人口が増え、食堂、喫茶、レストランがいくつもある地域になっています。豊かな生活を目指新しい挑戦をしています。広大な台地と水の豊かさは持続的開発能力を秘めている証で、世界自然遺産候補であり、MV22オスプレイは住民生活と自然に対する冒涜である。
 
 移転すべきは住民ではなく、ヘリであり、MV22オスプレイであろう。防衛省はヘリ、大浦・辺野古でジュゴン追い出し作戦展開し、ヘリの調査が終わるとジュゴンが大浦に来たのではありませんか。
 
 京都防衛事務所によれば、防衛省はMV22で人間追い出し作戦展開するのか、単なる単なる担当官の発言に矮小化してはならい。
  (ヘリ基地反対協議会代表委員)

「高江の現状」(30日)ー必見・拡散
http://takae.ti-da.net/


京都行動のみなさん
 みなさんのブログいつも見ています。「宝の海」もリンクしてねー。

 このブログは拡散して広まること期待する。
 京都のみなさん、04年から京都行動敬意を表します。愚直的持続は、展望を生み出す。
私の1日は、辺野古関連サイトを見て1日が始まります。でも、「宝の海」辺野古でもっとも長い歴史持っていますがリンクされていないので少しさびしいです。
 限られた命、いつ、尽きるか、宿命の中で、沖縄民衆の宝を伝えたいと思います。
プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
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   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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