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5月6月の闘いへ



4・28から5・15へ

やんばる統一連の「4・28」
  辺野古・高江の勝利めざし
 伊佐真次ぐさんの激励会

 やんばる統一連代表具志堅徹さんのあいさつ
 私もあいさつさせてもらった。その前に隣人たちの退職ジジャーパティーあって少し疲労感があるのであいさつして退散。
 私たちはSACO以来の日米合意、ことごとく破綻させて来た。すごい力蓄積してきました。今日は4・28、復帰闘争碑文に先人たちの戒めが掛かれています。

「 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。 闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、決意を新たにし合うためにこそあり」

 伊佐さんへの不当判決跳ね返し、県議選勝利し、すぐ、高江の闘い構築に私たち頑張ろうではありませんか。  

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 伊佐夫婦と高江の森の「仙人」佐久間さん。
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 参加者の思い
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 5月からの闘いへの決意
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お知らせ

沖縄憲法講演会
今年の憲法講演会5・3は坂手さん、UAさん


今年の憲法講演会は坂手さん、UAさんが出演されます。二人とも奇しくも3・11のお生まれ、「おきなわ」の地で、命と未来、そして憲法を考えます。

2012憲法講演会『活かそうホントの憲法の力』

 ◇5月3日(木)13時30分から
 ◇那覇市民会館大ホール、
 ◇参加費700円、学生500円高校生以下無料
 ◇講師・坂手洋二(さかて ようじ 劇作家)
 「『沖縄』の想像力が世界を結ぶ」
 ☆特別出演 UA(ウーア 歌手)
* 手話通訳つきます。
* 問合せ先・沖縄県憲法普及協議会
098・853・3281 、854・3381
主催:沖縄県憲法普及協議会、沖縄人権協会、日本科学者会議沖縄支部

ドキメンタリー映画「 誰も知らない基地のこと」
  5月12日から桜坂劇場上映
  監督 イタリア人


沖縄
 5・15平和行進(平和センター)
 
  5月11日~15日
 要項

 http://www.peace-okinawa.net/
 日本全国
 5・15街頭行動(日本平和委員会)
  街頭配布ビラ

http://j-peace.org/2011/pdf/120515chirashi.pdf
http://j-peace.org/2011/pdf/chirashifutenma1203.pdf

高江スラップ訴訟控訴
 友人の手紙と弁護団の決意

28日に名護民商会館で、伊佐真次さんを激励する会が開かれました。赤嶺政賢衆議院議員、古堅実吉さん、宮里政秋さんらも参加しました。激励会のなかで弁護団のサイトウ弁護士から報告がありました。裁判の経緯と重要な点がわかりよかったのでメモにしました。そのままの起こしではなく、意訳して整理した部分が含まれるものです。文責は安里にありますので留意ください。また伊佐さんはこれまでは国が起こした裁判の「被告人」でしたが、控訴したので、今後は「控訴人(こうそにん)」となるそうです。

(サイトウ弁護士報告)
裁判の前に仮処分というものが起こされたのが2008年の11月でした。突然伊佐さんですとか安次嶺さんに裁判所から郵便が届いて、「なんだこりゃ」ということではじまったわけですけれども、仮処分というのは裁判で判決が確定するまでの間、仮に妨害するなということですが、この仮処分も前代未聞のひどいものでした。ろくな証拠がないのです。普通国が裁判をやるとそれなりに公務員を使って税金を使って証拠を集めてちゃんとしたことをやるのですけど、証拠をださない。「この人が妨害をしています誰さんです」と言って、違う人の写真を提示するとか、あるいは妨害している写真がひとつもないとか、そういうまま裁判を起こしてきたというちょっと考えられない話です。
これを県外の弁護士に話すと、「本当ですか?(普通)国は証拠を集めてから裁判しますよね」と驚かれます。「いやいや信じられないことなのですけど、本当に写真がなかったのです」と、そういう説明をしなければいけないほどひどいものであったわけです。そのような仮処分を一年間たたかいまして2009年12月に伊佐さんと安次嶺さんだけ妨害するなと決定がでてしまうわけです。伊佐さんたちは、それは納得できないということで、国が裁判を起こしたわけです。
その判決が3月14日にありました。内容は不当判決と言わなければならないものです。今回の裁判で一番問題になっていたのは「スラップ訴訟」という問題で、言い方を変えると「嫌がらせ訴訟」とか「脅かしのための訴訟」というものですが、アメリカではよく起こっているもので、国ですとかあるいは大企業が住民運動、反対運動をしている人たちを民事裁判で訴えてしまうというものです。
国や大企業が裁判を起こしてもそれに関わる人は、平日は昼間の仕事中に給料もらいながら裁判の準備をして、裁判代も国や大企業がだしてくれるんで全然困らないわけですが、訴えられるほうは一個人ですから、自分で弁護士を探してお金を払って、時間も取られてということで裁判をやるわけですからがものすごい負担になるわけです。ですから訴えられると困るということになります。「訴えられると困るから住民運動を控えよう」となることを狙って国や大企業は個人を相手に裁判を起こすということがアメリカでは起こってきたので、今アメリカではこういうスラップ訴訟を禁止する法律が.できているわけです。
これまで、こうしたスラップ訴訟というものは日本ではあまり例がかったわけです。今回国が起こしてきたのはめずらしい話で、日本ではあまりなかったからそういう理論が進んでいないわけです。この裁判は国が負けても困らないわけですね、国が負けても勝っても一緒です、負けてもゼロに戻るだけだし、伊佐さんだけに勝ってもほかの人が抗議活動はするわけですから、まさにスラップ訴訟として起こしてきた裁判なわけです。
我々弁護団はどう主張してきたかというと、そういう「嫌がらせ訴訟は日本でも許されてはいけない」ということを言ってきたわけです。裁判所はその点について正面から向き合わないで、日本ではまだそういう理論がないということで、大した検討もしないで国の訴訟を嫌がらせ訴訟ではないと言ってしまいました。これが最大の問題で、裁判所がそういうことを言ったということは、今後もスラップ訴訟が起こされるということです。スラップ訴訟というものに歯止めをしなかったということについて非常にひどい判決だと言わざるを得ません。
伊佐さんがやっている行動は表現の自由なんです。憲法で保障されている表現の自由です。今回イサさんは防衛局の職員の前に立ったりしているんで、その限りで言えば、防衛局側からするとちょっとはじゃまされているわけですね。しかし、果たしてそれを妨害と言って、「行動をやめろ」と言っていいのか、というとまた別の問題です。表現の自由というのははじっこのほうで「やめてください」と口で言っていいというだけの権利なのかどうかという問題で、表現の事由でこういうひどい工事の強行を辞めてほしければ職員の側に行ってやめてくださいと行ったり、ちょっとは立ちはだかったりすることもあるはずですね、防衛局の職員が通ろうとしているのを押さえつけたり、組み伏せたりしたら妨害であって、表現ではないんでしょうけど、「やめてください」とちょっと立ちふさがって防衛局の人がちょっと通れなかったというのを果たして妨害と言っていいのかという問題を弁護団は提起していたわけですが、裁判所はこの点も大した判断をしていない。ビデオでは伊佐さんが前に立っているから「邪魔なので妨害です。以上!」というひどい判決です。
 大事なのは、今回の判決は決して運動にとって落胆する問題ではないということです。高江のヘリパッド建設反対や、その他の活動を自粛する必要はないということです。裁判や仮処分で国(防衛局)は何と言ったかというと、「伊佐さんがグループをつくっていて、住民の会はみんな同じ穴の狢で伊佐さんの支持で動いているから伊佐さんは指示をしてはいけない」とか非常にひどい主張をしていたんですけど、さすがに裁判所はそれはとりあわなかったわけです。伊佐さんが判決で命じられたのは物理的方法で妨害してはならないという話です。座ったり、引っ張ったり、防衛局の職員を組み伏せたりしてはいけないというその程度の話であって、現場で、口頭で行う活動についてなにも萎縮する必要はありません。判決自体は不当ですが、最初仮処分は15人訴えてきて、終わりのときには2人になって、今回イサさん1人になった。この成果は落ち込むことではない。判決についてはすでに控訴をしていますので控訴審の裁判官がもうちょっとまじめに考えてくれるように弁護団も今後頑張っていく予定ですので応援などよろしくお願いします。




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4・28海上大会再現



復帰40周年国頭・与論記念行事
 辺戸岬と与論展望
 水平線に与論が浮かぶ
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 水彩画で
  青山君に
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 国境27度線めざして
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 27度線交流
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 宮城久和国頭村村長平和宣言
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 復帰行進
  ノボリを赤旗、復帰要求に置き換えたら・・再現
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 名所カヤウチバンタ
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 カガリ火点火(当時は27日)
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過去は 数千人の参加であった
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 右から同級生青山、小橋川春武(教育長)、大城武(村議)、宮城村長ら同級生
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日米共同発表どう読むか
 前文に抑止力と動的防衛力強調し、米軍。自衛隊の一体化をめざし日米同盟深化、これは南西諸島の軍事強化たと日本全国の米運の訓練展開であろう。日米首脳会談を待ってコメント
 私の見方とタイムス社説だいたい一致する。
沖縄タイムス社説
[日米共同文書]負担軽減の本気度疑う
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-29_33124/

喜納焼の甕
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「わたしの復帰闘争小史」第二主人公青山恵昭


 4月28日は
  過去も現在も「民族屈辱の日」


二つのトンネル
 幸地又トンネルと大北トンネル
 27日は快晴、毎日雷雨激しい日が続いた。辺野古への散歩試みた。名護岳の下を二つのトンネルが開通した。私の家も大北、今まで名護市街から世冨慶、辺野古へ通っていた。
 トンネル使うと辺野古へ15分で行ける。
那覇から高江支援のみなさん、世冨慶からトンネル利用すると時間短縮できます。
 大北トンネル
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 幸地又トンネル
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 テントに大阪で奮闘している芳沢さんが来ていた。
  うれしかった

 心から嬉しかった。
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 芳沢さんの高江への寄せ書き
  チムグクルの籠った
  復帰闘争碑碑文が刺繍されていた。裏には高江の森の刺繍、大変な暇かけて完成し、芸術的価値がある。
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 アセス逃れの海兵隊兵舎600億、
   日米新共同声明発表(下記資料)

カメラに写す度に、ワジワジ(怒、怒・・)、新米合意共同文書読む、海兵隊抑止力強調、辺野古移設と普天間固定化、全国的な米軍自衛隊共同訓練、基地の協同使用などなど。
 福島はじめ被災地の仮設住宅と比べると豪邸、シシブトゥミキ(肉体が破裂)するほど屈辱だ。
 「海兵隊に使う税金を被災地に」
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フェンスの看板
 日本の法律知っていますか。

 「刑事特別法」、ここにも、安保が見えないようにしています。ところで、千歳の自衛隊基地の看板はなんと言う法律で罰せられますか(答え???)
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魚ミジュンの群れです。
 魚にはフェンスも国境もありません。

 人間てふべんですねー。国境が有ったり、国境めぐって「イクサ」を煽ったり、まったく野蛮な動物ですねー。
 屋我地橋を思い出しました。ハンセン病者が差別で水も湧かない無人島に逃れた碑文。
 「魚なら潜りても逃れん、鳥なら飛んでも逃れん・・・・・・」
 政府の手を借りず、自らの力で療養所沖縄愛楽園を開設した。
 米軍て、面白ですね、自分たちで檻作り、日本ミニタリストの傭兵になっている。

       DSC02121.jpg

 日米2プラス2共同声明文書
http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/index.html#ann
 QABニュース

日米共同発表 嘉手納より南 5施設を13分割
http://www.qab.co.jp/news/2012042735200.html
 『私の復帰闘争小史」の第二主人公?
 同志ー 青山恵昭 タイムス・新報・QABの主人公、

 企画の国頭村長宮城久和君(元NHK沖縄アナウンサー)も小学校・中学・高校・琉大と同級生。
5・15 -夢・現実そして未来へ- 43年ぶりに再現 海上集会
 青山君の撮った海上大会・かがり火の写真29日、「宝の海」第2信で公開の予定。
なお、青山君親子の数奇な歴史は『沖縄公論』季刊紙(編集長神山吉光ー同級生)に書かれています。年度はいつであったか、書籍すべて処分。
http://www.qab.co.jp/news/2012042735206.html

大西照雄


bingo@y5.dion.ne.jp大西照雄

私の復帰闘争小史(終)-沖縄と世論、わが友「国頭・与論人」の闘い



 最後の「4・28」
   原点ー過去・現在・未来

 1972年4月28日、最後の4・28の沖縄県高等学校教職員組合のデモ隊列です。横断幕には安保反対、完全復帰のスローガンが見えます。「核も基地もない平和の沖縄」を目指したが条件付き、密約返還となりました。
 現在、普天間全面返還・閉鎖に対して移設論にこだわり、知事も「不可能論」で県民の普天間返還を明確にせず、様々な疑念を生んでいます。
 基本的な原点は最後の「4・28」が示すように安保条約をなくする事、「完全返還」を求める明確さが沖縄にも求められます。


無題15
 (この間の写真、『復帰闘争史写真」集より)
 復帰闘争「語り部」として
  同志青山恵昭君の児童生徒への講演

沖縄タイムスに「27度線ー誓い再び」が連載されました。第1回青山恵昭氏は中学。高校ともに学び学生時代復帰闘争を共に闘った同志である。
 1983年、岩崎書店『子ども歴史風土記47都道府県』(歴史教育者協議会)が出版された。青山氏をモデルに「辺戸のかがり火」を。私が執筆しています。
 青山氏の児童生徒への「講演」で「私の復帰闘争小史」を締めます。
追記
 琉球新報「屈辱の記憶3」(27日)にも青山恵昭のインタビュー。


無題16
(沖縄タイムス1面25日青山恵昭)

児童生徒
 「4.28」レクチャー
                             
  主催/祖国復帰40周年記念事業 国頭村実行委員会

       
  日時/012年4月16日(月)午後5時~7時      
  開場/国頭村保健センター           
  受講者/小中学生30名+教師父母一般20名     講話 青 山 惠 昭
                               〔レジュメ〕
  
はじめに
  国頭村と鹿児島県の与論町が一緒になって「復帰40周年記念事業」が開催さ
 れることになりました。来たる4月28日には海上大会、かがり火交歓、復帰行
 進などがおこなわれます。
  私は20歳のころ、1964年から2~3年間、その行事に参加しました。半
 世紀も前の遠い過去のことですが当時の記憶を思い起こしながらお話しをさせて
 いただきたいと思います。
  沖縄の祖国復帰については、学校でも教わってきたと思いますが、今日はあら
 ためていっしょに勉強してゆきましょう。

1、自己紹介、父は与論島、母は国頭の人  
・私の名前は青山惠昭(あおやまけいしょう)といいます。生まれは与那国島の南西
 向こうにある台湾です。5歳の時、長崎と鹿児島を経て母の実家のある沖縄の国
 頭村に来ました。今は2人の孫がいる68歳のオジィになりました。
・今からちょうど50年前、18歳の時、こちらの辺土名高校を卒業し、それから
 ずうっと那覇と浦添で住んでいます。みなさんの辺土名小学校と国頭中学校は私
 の母校です。
・昨日、家族7名でシーミー(清明祭)でこちらに来ました。兼久の三男渡慶次と
 いうところの門中墓です。国頭中学校の渡慶次靖先生の家が本家で辺土名小学校
 の港川オリエ先生も親戚にあたります。
・青山という姓なのになぜ渡慶次のお墓に来たかいうと、祖父のトートーメー(位
 牌)は私の家の仏壇にあって、ちゃんとお墓参りをしないとご先祖様に怒られる
 し、また寂しがったらかわいそうだからです。トートーメーのことはややこしい
 ので、くわしくはみなさんのオジィやオバァに聞いて下さい。
・青山という姓は沖縄ではあまり聞かないですが、私の父は辺戸岬から見える鹿児
 島県の与論島の人です。与論のことを方言でユンヌといいます。だから私はいわ
 ゆる「クンジャンユンヌンチュ」(国頭・与論人)なのです。
・父は私が生後3ヶ月の時に戦争に連れてゆかれ、戦争から生還してきたのに、台
 湾228事件という大事件に遭遇し“失踪”されてしまいました。ですから父の
                   ① 
 ことは記憶がありません。だからよけいに与論のことが気になるかもしれません。
       ※掲示:父母の結婚した時の写真(台湾で)     

2、日本から切り離され分断された沖縄と奄美
・日本は1945年8月15日太平洋戦争で敗戦。沖縄は3月26日から地上戦と
 なり県民の4人に1人が犠牲になるという壊滅的な打撃を受け6月23日に組織
 的戦闘が終了しました。6月23日の「慰霊の日」がそれです。
・沖縄は同年6月23日の戦闘終結から、アメリカの占領地となって異民族支配下
 のたいへんな苦渋を強いられる戦後のスタートとなりました。
  ・今から60年前の1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条
 約第三条によって北緯29度線をもって沖縄と奄美は日本から切り離され、19
 45年の上陸占領からひきつづきアメリカの直接統治下に置かれました。琉球列
 島あるいは南西諸島といわれる地域です。
・小学校1年生の夏休み、48kmも離れた与論から、父のお兄さんにあたる叔父
 (当時45歳)さんがエンジン付きのサバニ(くり舟)で迎えに来てくれ、辺土名か
 ら与論島へ、オジィも一緒にサバニに乗って高い波間を木の葉のように揺れなが
 ら大海原を6時間くらいかけて行きました。途中、エンジントラブルで2時間も
 漂流したのに平気でいた叔父さんとオジィのふるまいが印象的です。
・与論島の親戚や子どもたちと2~3週間ほど楽しくすごして、帰りはまた叔父さ
 んのサバニに乗って帰ってきました。与論のみなさんからは豚とにわとりという
 すごいお土産をおみやげをもらいました。沖縄は激しい地上戦のために、牛、馬、
 山羊、豚、鶏などの家畜がほとんどいなくなっていたのでオジィも一緒に大喜び
 しました。うれしくなってうきうきしながら子豚やにわとりたちと大海を渡って
 来たものです。
・与論島は400年前から薩摩の支配下にあって今も鹿児島県です。しかし昔は与
 論を含む奄美諸島は琉球王国の仲間でした。ですので、人々の顔かたちや言葉、
 文化、暮らしぶりは沖縄とほとんどかわりません。
   
3、1953年奄美は母国復帰、沖縄は北緯27度線で分断・それから1年8ヵ月後の1953年12月25日、北緯27度線から北へ、与論
 論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島などが返還され日本へ復帰しました。
・それは奄美の人たちが血のにじむような復帰運動を島ぐるみで頑張ったから実現
 できたことで悲願達成の大きな喜びでした。
  ・しかしながらそれはまた、沖縄との7年余という束の間の一体感との別れとなり
 新たな悲しみの始まりでもありました。
・その日から辺戸岬と与論島の間の北緯27度線は“国境”になり、与論島など奄
 美諸島から北への日本列島は「外国」になったのでした。
 ・沖縄を支配していた「琉球列島米国民政府」は恣意的に日本ではなく琉球とよび


無題17
 (沖縄タイムス16面25日)


   「琉球政府」をつくるなど琉球という名のつくいろいろな機関をつくり、島中に
   軍事基地をつくっていきました。琉球立法院、琉球銀行、琉球大学、等々です。
・この日から、日本国の国民でありたかった沖縄の人々は国籍を奪われ4月28日
   のことを、くやしくてくやしくて「屈辱の日」とよぶようになりました。
・その日から私も“外国人”になりました。本籍は日本国鹿児島県与論村だったか
   らです。私たち“非琉球人”は米国民政府高等弁務官が発行する非琉球人・半永
   住許可の「在留許可証」というものを持たされました。
       ※掲示:在留許可証
・許可証を申請するために、母と一緒になぜか「警察」まで行って、小3の子ども
   がなぜか指紋まで押さされ、悪さをしたような怖くていやな印象が今も心のなか
   に重く残っています。
  ・その時私は小3になっていました。与論へは勝手に行けなくなり悲しい思いをし
   たものです。与論の親戚もとても悲しんでいました。
       ※掲示:小3のころの写真
・それから先、なかなか行けなかった与論へ行ったのは20年後の1971年です。
 日本政府発行の琉球列島米国民政府高等弁務官の「再入域許可」の身分証明書=
 パスポートを持って行きました。
     ※掲示:身分証明書
・しかし、もう沖縄から直接は与論へ行けません。まず奄美大島まで飛行機で行き
 名瀬で一泊、翌朝の船便で一路南下で与論へ向かい、古仁屋、徳之島、沖永良部
 島を経て3日目にやっと与論へたどりつくという長い道のりでした。かつてはサ
 バニでも半日ちょっとあれば行けたというのに、です。
・自由往来が禁じられ分断された北緯27度線という海峡、それからはしかたなく
 密かに生活物資などを運んで交易をする“ヤミ船”や隠れて行き来する“密航者”
 があらわれるようになり警察に捕まれるという光景にたまたま出会いました。私
 の家にも、手に縄をかけられて引っ張られてゆく大人たちを目のあたりにして子
 どもながら気の毒に思ったりしました。
  
4、「沖縄を返せ」日本復帰運動大きな流れに
   
・それからの沖縄は、米軍基地建設のための土地強制接収が全島で強行され、由美
 子ちゃん殺害事件(1955)、宮森小ジエット機墜落事件(1959)等々の米軍米兵によ
   る事件事故があいつぎました。
・伊佐浜の土地闘争をはじめ島ぐるみの激しい抵抗闘争が大きく広がり、米軍の事
   件事故にたいする怒りは人権と生命を守るたたかいへ発展してゆきました。
  ・日本人でもなくアメリカ人でもなく国籍を奪われ、人権や財産、生命さえも奪わ
   れるという米軍支配に状況のもとで、日本復帰運動は沖縄中を包みこむ大きな流
   れとなってゆきました。
・1963年、祖国復帰協議会によって復帰行進と海上大会、かがり火大会がはじ
                     ③ 
 めておこなわれました。復帰行進はひと月ぐらいかけて東西2コース、かがり火
 大会は27日夕夜、海上大会は28早朝から北緯27度線海上で開催、県民総決
 起大会は那覇市で数万人規模で開催されていました。
・当時の復帰運動の模様は「道の駅・ゆいゆい国頭」で写真展が開催されますので
 ぜひ見てください。(5月31日まで)
・大学に入学して、熱気あふれる先輩たちの行動に共感し学内の全学的な復帰運動
   に交わり復帰大行進にも参加しました。私が歩いたところでは学校や集落に近づ
   くと住民や生徒たちが沿道両側で待ちうけ、ブラスバンドの生徒たちが待ち受け
   て合流し「沖縄を返せ」の曲を演奏して先導し役場でも学校でも集会が集会が開
   催されることがありました。では、この歌をみんなで歌いましょう。
              沖 縄 を 返 せ   
       かたき土をやぶりて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ 
       我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ
       我らは叫ぶ沖縄は 我らのものだ沖縄は
       沖縄を返せ 沖縄を返せ   
・集落に来ると婦人会などがお茶やおにぎりを出してくれ、宿泊地は公民館などの
   公共施設などで地元の人たちと“復帰懇談会“の開催もやるというふうに、今で
   は考えられないようなことがありました。ほんとうに沖縄中が島ぐるみだったん
   だなとつくづく思いだします。

5、海上大会参加、与論の叔父と海上で握手
・やはり記憶が薄れたようです。具体的にはなかなか思い出せません。さいきん当
 時のメンバーと久しぶりに会って話しましたが、みんな私とあまりかわりません。
   しかし、このきっかけでだんだんよみがえってきたこともあります。
・東京オリンピックのあった1064年と翌65年、海上大会に参加、北緯27度
 線での海上大会には数十名の学生から数名しか乗船できないという厳しい制約の
 中から与論島“出身”ということもあって優先的に乗船を許されました。
・前夜の27日、夕闇に暮れる岬は1000名をゆうに超える人々が埋め尽くして
   ゆきます。復帰行進の最後の地点にたどりついた人々はまさにあの勇者の面立ち
   で“沖縄を返せ”の雄たけびを叫びながらやってきました。
・8時点火!。塔のようにそびえ立つ薪材が漆黒の闇に火柱を突き上げます。爽や
 かな南風が吹く岬の北に目をやるとはるか彼方の与論島からかすかな炎がみるみ
 るうちに大きなって迫ってきます。岬の岩間から、草の根っこから。大海原から、
 そして背後の辺戸御嶽の岩山からも“沖縄を返せ”の大合唱がかえってきました。
  ・朝6時、雨はなく曇天、風少し、奥集落へ行き海岸から5~6トンぐらいの漁船
   に10数名も乗って北の方向へ向かいます。みんな、ほとんど不眠の紅潮した顔
   であまり語らずなにか決心したかのようでした。
・1時間ぐらい経って北の向こうから船団が見えてきました。まもなく一体となり
                   ④
 大会が始まったようで、大海原で大音響の叫び声が響きわたりああ始まったんだ
 とわかり、耳を澄ますと凪っぽい海景に漂ってリーダーたちのそれぞれの決意と
 か宣言とかが力強く聞こえてきました。
  ・ひと通りのセレモニーが終わると大小の船が入り混じっての交歓がはじまり、私
   の乗ってる漁船も出逢う船ごとに握手や掛け声、物々交換などで最高潮に達して
   ゆきました。モノモノは、沖縄側は黒糖、サーターアンダギー、泡盛やサトウキ
   ビ、等々…。本土側はリンゴや梨などそれぞれ特産品でした。
・そのうち私が乗ってる船に本土側のサバニがやってきて、私の名前を告げる人が
 おり、即座に与論の叔父とわかりました。学生会とかいたノボリをさがしたとか
 いって…。叔父もチャーター操縦で本土からのメンバーを乗船させていたので一
 瞬の間でした。小一以来の13年ぶりの再会、握手を交わしこみ上げてくるもの
 がありました。10日ほど前に「船に乗るかもしれない、逢えたらいいね」と手
 紙を送ってありましのでほんとうにうれしかったです。
・やがて北緯27度線を南北へ別れて名残り惜しく南の方向へ向かって行くと「沖
 縄島」の姿が眼前に迫ってきました。本土から沖縄へ向かうときにはじめてみる
 洋上の沖縄の姿です。“沖縄を返せ”の意味があいがより深まって行きました。
      掲示:「ゆいゆい国頭」ロゴマーク
         与論島「母国復帰記念碑」写真
・今考えるてみると、大海原の“国境”におけるこのようなたたかいというのは世
 界史的にもきわめて稀で、抑えられてきた民衆のすばらしい創造的な知恵だった
 と思います。
・海上大会、かがり火、復帰行進の一連の行動はその後も数年間にわたって開催さ
 れ、やがて沖縄県民の総決起と日本国民の連帯したたたかいは巨大なエネルギー
 となって1972年にはとうとう日本復帰が実現できました。
・米軍基地など様々な問題を抱えながらも悲願の祖国復帰をかちとり日本国憲法の
 もとに帰ってきました。あれから40年たった今も理不尽で不条理なことが今も
 続いております。あの「4.28」で本土のみなさんとかたい握手で連帯してき
 たことを思いおこし、平和と民主主義、自由と平等のあらたな“かがり火”を高
 くかざしてゆきましょう。
 
おわりに

 このイベントは国頭村と与論町が未来に向かって平和を発信する上で大きな貢献
となるでしょう。とりわけ、辺戸岬は日本復帰運動の原点であり、先人達が命をと
して奮闘してきた記憶をとどめた歴史的な地です。
 これからもよりいっそう平和と友好の絆をつよめ、新たな未来に向かってみんな
で考え行動してゆきましょう。

 辺戸岬復帰闘争碑文結び
 現在・明日への「警鐘」
「 闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。」

東京の4・28
  伊波洋一講演会
 沖縄と結び安保・日本の進路

http://j-peace.org/2011/pdf/120428ihakikaku.pdf

26日第2信ー日米首脳会議―「茶番劇開幕か」?-共同文書延期


10:30
 日米合意は打ち破れるもの
   自己破綻するもの

 30日からのオバマ・野田会談前に新日米合意文書発表が延期のようだ。
 SACO合意は17年経っても進展せず、日米合意(95年10月)・ロードマップも破綻、その後の日米合意「モドキ」も外交的に破たんの連続である。
 日米政府の約束ごとは、ことごとく、破綻しながら、沖縄基地の強化、日本全国での米軍の訓練の激化のみ進んでいる。
 オバマ・野田には「恥」がないから厄介だ。両首脳が何を約束するか、日本人民は約束をこれまでの実績に加え、その野望を打ち砕くであろう。
 日米政府の茶番劇場が、GWのWDだ。

追記
 日米政府、面子保つために、野田渡米までには発表するであろうが・・・・・

共同文書発表を延期 在日米軍再編見直し
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-25_32972/

共同文書発表を延期 在日米軍再編見直し

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190495-storytopic-108.html
社説

オスプレイ前倒し 命脅かす暴挙止めよ
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190493-storytopic-11.html

私の復帰闘争小史ー主席公選・渡航拒否闘争から教師の道へ



 私の復帰闘争小史(4)

  復帰協執行委員として
   沖縄の闘い高揚期のなかで

  63年秋、2年次、友人の伊波宏俊を学生会長に立候補させ当選させる。祖国復帰協議会の琉大を代表して執行委員代行(会長代行)となり主席公選、渡航制限撤廃、大学自治では永積渡航拒否問題で全学共闘を組織、全学生が立ち上がるなど様々な問題に取り組むことになる。
 当時の任命主席太田政作は村の出身で、村の人々の誇りであった。彼の実家に胸像も建てられている。村には、私が知らないようなことまで伝わり、父母は嫌な思いしたようだ。大学では、CIC(米諜報員、学生にもいた)が暗躍していた。
 
無題10
 (主席公選・自治権拡大県民大会 64年6月26日)


 主席指名闘争秘話
   「逃亡者?」

 米民政府は主席任命から立法院の指名受け、任命制へと余儀なくされる。64年10月29日~31日、指名反対立法院包囲大闘争が起こる。私は琉球大学の指揮を任された。
 機動隊に逮捕されそうになり「大西が捕まった、救え!」の声、ところが、機動隊、僕を離して、移動。機動隊勘違い。
 琉大の部隊と対峙し、機動隊指揮していたのが私の従兄であった。機動隊は従兄が指名反対の民衆につかまったと救出行動取ったのである。
 (1967年2月24日、教公2法反対闘争では「ゴボウ抜きされた機動隊」と報道された)

 お盆、シミーで会うと二人で昔話を思い出すのでした。大西(沖縄で大西はめったにない姓)でよかった。比嘉とか宮城であれば、わが人生変わっていたであろう。
 任意出頭のハガキが来た。喜屋武真栄会長が「外国旅行」(本土)をして来いと手配し、東京大学駒場、信州大学、金沢大学、名城大学、南島寮と二月、冬の旅をした。パスポートはこの夏の原水禁大会参加するため申請、9月になって交付されたが・・・かなりの人が起訴された。

「海外旅行」中、全国教育系学生教育ゼニナールに参加し、優れた教育理論、民間教育運動に触れる。教師の道こそ、私の進む道と決意する。1966年4月、宮古高校に採用される。教育二法闘争は援農活動であった。66年秋、宮古島第二台風は宮古島を壊滅的に襲った。2割・5割年休闘争指令されても宮古ではすることないから、ビラまきしながら農家の支援していた。台風でキビは浮き、悲惨な状況で枯れたキビ、収穫出来るキビ、涙がこぼれた。また、沖縄県高等学校教職員組合の結成に参加し、宮古支部の初代書記長に就任する。教師2年目であった。宮古は文学サークル、歴史サークルが地域で盛んで知識欲を駆り立てられた。

無題11
 (64年10月31日、いわゆる「立法院本会議乱入」事件)

主席公選実現ー自治民衆の力で
  屋良朝苗革新主席実現(68年10月11日)

無題12

 (明日ー復帰闘争小史最終回ー「最後の4・28」原点とは過去・現在)
 次週はー5・15に向けて全国の闘いへ

お知らせ
 4・28やんばる統一連学習会

無題8
日本平和委員会
 4・28学習会


http://j-peace.org/2011/pdf/120428ihakikaku.pdf

25日第2信ーオスプレイ配備、知事コメント?


田中防衛大臣が来て、去って
 知事談話なし「密談」政治の成果?ー高江と同時狙った?

 拡散希望ー

 関連記事両紙から検索
琉球新報
無題14

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190447-storytopic-3.html
 沖縄タイムス
無題13
="233" />
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-25_32942/

12:50追加
 沖縄タイムスHP
 疑問の湧く記事だ。
25日の新聞には、知事の談話なし、HPには知事談話掲載。どういうことか。23日田中・知事会談後田中は「オスプレイの問題共有している」と意味不明発言、知事の態度気にしていた。頻繁に知事上京含めて。
タイムス記事は電子版といえる?。なぜ、この記事出て来る。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-25_32969/
コメント
 普天間問題の原点は「普天間返還」「閉鎖」である。仲井真知事は「危険性除去」に言い換え、「辺野古不可能」論の「県外移設」が立場である。
 この談話では「普天間移動」説の珍説を普天間原点とする。政府・メデイアが流し続けている訓練移転論含む移転論の反映、原点をマチブイマチブイさせる新しい用語となるか。
 さらに問題、疑惑を抱かせるのは知事の「基本的に反対」の姿勢で、下記QABニュースでも公室長の発言で見られる。

QABニュース
アメリカ海兵隊 オスプレイ7月配備を計画

http://www.qab.co.jp/news/2012042535142.html
オスプレイ7月配備計画 県民「これ以上の危険増やすな」と反発
http://www.qab.co.jp/news/2012042535144.html

植民地大学ー私の復帰闘争小史(3)


祖国復帰を教えるとは
  過去・現在・未来の沖縄

 沖縄タイムス(22日)

「メーリングリスト」で発信したメール
沖縄タイムス1面

 「高校で『復帰教育』を」
皆さんはどのように受け止めたであろうか。
 私は現職時代野外学習など重視、定年に至る7年は愛楽園を柱としてきました。教育庁に呼び出されたたり、校長室に呼び出されたりした経験からすると、何を狙っているであろう。と、思うのである。沖縄を主体的に教えることは「勇気」のいることなのです。いくらでも教える機会はあります。教えられてない現実はなぜ生み出されたか。いま、また、国の立場から教える必要性が生まれてきたのか。沖縄民衆の立場から教えるのか。少なくとも、沖縄の子供たちは他府県(修学旅行)より、沖縄を教えられてないことは事実です。悲しい現実です。(沖縄DDメール投稿より)
  大西 照雄 元高校教師


無題7
1995年9月4日、琉球新報夕刊コラム「人工衛星」ー「都合のいいとき沖縄に学べとい、都合悪くなうと老い縄切りすてる日教祖」、日本の労働組合が安保容認完結の日、少女暴行事件が起こった日だ。
 しかし、また、私教連に加盟する学校は「沖縄平和修学旅行」の実践を深め、10・21県民大会以降、沖縄修学旅行が爆発するが、沖縄は逆に動いた。
 NHKなどの安全保障番組で沖縄の学生の「基地で生活している人もいる」の発言、うまく利用される場面に遭遇する。

「本当の悲劇は、独裁者の暴虐ではなく、善良な人々の沈黙だ」(沖縄タイムス「大弦小弦24日」

 

私の復帰闘争小史メモ(3)

 琉球大学へ入学
   植民地大学のなかで

 みんなで合格しよう
 「学ぶ」と「学び」
 当時、電機は村の自家発電11時まで、田舎には予備校もなかった。最終バスは9:30分、教室にランプつけてみんなで勉強、教員は遊ぶ場所もないからヤンマージーゼルで発電して学校で酒を飲んでいる。わからなくなると酒を充満させた居残り教師引っ張りだしていた。約40分自転車こいで家路へ。朝・夜はNHKの受験講座、村はVOA(謀略放送局ー空中から電気獲れる地域あり)でなかなか聞けず。その中を北京放送の甲高い声が国際情勢を伝える。
 当時、日本は外国で国費・自費の留学制度が高校生のあこがれ、落ちて琉球大学へ62年入学する。仲間たちとの学び合い、教師になって「学ぶと学び」の教育観となる。
 琉球大学を支配していたのはミシガン州立大学であった。1955年土地闘争などで学生を退学処分にしていた。

 最初に遭遇した事件
    国場君轢殺事件(63・2・28)

 大学に入って起こった事件の重要な事件であった。
 大学ではアルバイト、休みは土木工事、夏休みなど長期は村に帰り炭を焼いた。寮費は月10ドル、夏、月で80ドルの炭を焼いた。家庭教師もかなりやった。学生に人気のあったバイトは那覇軍港のチャカーマン、米軍の貨物線のガードマンみたいなものだ。手当より「戦果」が大きかった。ベトナム戦争反対運動と矛盾していたと思うが、結構軍のアルバイトあった。大学での給料は公務員の2~3倍の時代と言われていた。
 
無題4
QAB「国場君轢殺事件」と軍事裁判(「宝の海」3月3日)

http://teruo024.blog47.fc2.com/blog-entry-1056.html
 QAB
http://www.qab.co.jp/news/2012022834084.html

4・28海上集会始まる(63・4・28)
 沖縄問題研究会・憲法問題研究会創設

 琉球大学にはマル研と言うサークルが活発な運動をしていた。肌に合わなかった。
 八重山・辺土名高校グループと言うのか田舎者で沖縄問題研究会立ち上げ、その責任者となり、引き続き憲法問題研究会立ち上げた。
 国際法の授業では統治行為論、条約論、潜在主権論など教授に論争を挑んでいた。千葉松戸で弁護士をやっている瑞慶山茂(高校1期先輩、アセス裁判弁護団)、後輩に照屋寛徳(現衆議院議員)などがいた。

また、毎週キャンバスでうたごえを学科越えて歌っていた。山川完治君はサンシンサークルで意思を引きついでいる。

復帰40年4・28海上大会、かがり火は沖縄問題研究会の辺土名高校同級生青山恵昭君が写真提供約束4月29日 公開出来そうだ。青山君の小中生への復帰闘争講話新聞で紹介された。

無題5

沖縄タイムス社説
[米軍再編見直し]「普天間返還」が原点だ

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-24_32889/

オスプレイ(ミサゴ)と私の復帰闘争小史(2)


 映画「ひまわり」製作始まる

 日本列島を「鉄のオスプレイ」
飛ぶ空にしてはならない


 オスプレイ(ミサゴ)の訓練
   久しぶりの太陽がいっぱい

 朝、太陽が寝室に激しく差し込んできた。空には雲一つなく、名護湾は油を流したようにウリズンの太陽の恵みを受けている。担当医は「大西さんの体、正常に闘っている」と励ましてくれた。
 辺野古の干潟、潮干狩りを楽しんだ村の婦人たちゆったりと家路に


DSC02083.jpg 沖縄防衛局の違法調査、天下りの社員であろう。

        DSC02087.jpg
 オスプレイ(ミサゴ)の若鳥か?
   ホバリングと漁訓練

 海が輝いたのは久しぶり、大干潮の海が上げ潮に動き出した。ミサゴが漁港内で餌獲りを始めた。今年初めての出会い、オスプレイは空中にホバリングして、垂直に体を螺旋的に落下させて獲物を捕獲する。オスプレイの獲物捕獲は、アジサシに比べて獲物捕獲率は高く、失敗すると広範囲の旋回に移る。
 今日は、漁港内も漁港外も同じ場所(目標?)を繰り変えし、角度も45~60度の角度で突っ込んでいる。この風景は見たことがなく、あいにく、カメラの焦点も絞れない。
 若鳥の訓練?
 オスプレイはアメリカ大陸から秋から春先まで日本列島に来ると言われている。オスプレイが去ると、辺野古に赤道越えてオーストラリアからアジサシがやってくる。
 沖縄の夏、「鉄のオスプレイ」配備反対運動高まるであろう。日本列島を「鉄のオスプレイ」飛ぶ空にしてはならない。

ミサゴの旋回
DSC02090.jpg
 獲物捕獲?失敗の意味?
           DSC02088.jpg

私の復帰闘争小史メモ
 その2「素顔の青春」

  二つの写真と二つの「日記
 1959年6月30日、辺土名高校2年E組、2校時日本史の授業中、突然、トランジスターラジオの声が教室中に響いた。授業聞かずレシーバーでラジオ聞いていた奴(私かもしれない)が、ボリュウムを上げたのである。
 石川宮森小学校ジェット機墜落事件の実況放送であった。学校中が騒然となった。
「子供にパラシュートはなかった」


2無題


 ノルマンデー作戦の英雄
    アイク来沖『歓迎』『抗議」の渦の中で

 1960年6月19日、沖縄最北端の高校生の私は「フエニックス通り」(現58号線から県庁まで)、この写真のこちら側、向こう側は日の丸と星条旗の歓迎で米軍の軍服、こちらは完全武装の二重の配置、私の眼の先に銃剣が光った。宮森小学校の陳情団は国際通りを行進していた。琉球民政府(現県庁)周辺は人民党が強く、米軍は嫌がらせで舗装していなかった。アイゼンハワー大統領は正面から帰れず、乗用車の屋根に頭を打ちつつ沖縄を去った。私が大学進学決意した日ともいえる。
 なぜ、私が祖国復帰協議会のデモの中にいたか。それから、35年経って私は突き止めるのです。当時、那覇高校は沖縄でも優秀校で、沖縄の高校生の祖国復帰闘争のリーダー校でもあった。
 当時の新聞は、全琉球模試、琉球新報模試の成績を得点、氏名、学年、学校名を掲載していた。私の同級生に総合点で10位以内に入るのが複数いた。科目で自分の名前入ることもあった。

 推量だが。下記の文書が各高校の掲載された高校生に送られたであろうという事。土地闘争、島ぐるみの闘いで弾圧された高校生のネットワークは大学受験システムを利用したということ。

 『琉球大学学生会決議の支持声明および全高校生への呼びかけ』
      祖国復帰を願う高校生の会 1960年6月8日
 「アイゼンハワーの来る19日の空港を歌と請願のプラカードでうずめよう!
  高校生の意気と力をこの行動に結集しよう。
  アイゼンハワーを『祖国復帰』のわれわれの叫びのなかに迎えよう!」
    (ビラの以後の部分)
 1950年代の沖縄の高校生の闘いは拙著『沖縄の太陽物語』(1995年7月)に紹介しています。


         3無題

 ガリ版先生の「学級新聞」
  「素顔の青春」

 私の教師はじめ、ガリ版時代、ボールペン原紙、ロットリング(ドイツ製ペン)、フアックス、コピー機、ワープロ、パソコン時代と歩む。
 ガリ版時代の学級通信に「素顔の青春」欄に高校時代を書いています。
 「ある夏の昼下がり」は石川ジエット機墜落事件を書いています。
 毎年、ガリ版で書くの大変でした。コピー機ができて助かりました。今の教師はもっとダイナミックなこと出来ますが・・・・・・

無題3
 素顔の青春「1960年の夏」でアイク来沖闘争と進学への決意を書いています。
無題4

 石川宮森小学校ジエット機事件
   映画「ひまわり」製作中(赤旗23日9面)
 辺野古海闘争闘った宜野座映子女史(元高校教師)が「フクギの雫」の演劇にして上演。今年中で映画になるようだ。脚本は高校の後輩大城貞俊さん。
 ネットで探しました。
http://eiga.com/news/20120414/7/

オスプレイ・宮森事件書いたら、偶然、私の日記と重なった。
 
(明日の「私の復帰闘争小史メモ」大学で何を経験するか)

 
主張
オスプレイ墜落
欠陥機の沖縄配備許されない

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-23/2012042302_01_1.html

4・28イベント。シーミーと峠の蕎麦屋

今週のイベント
   4・28復帰40年


琉球新報お知らせ

祖国復帰40周年 国頭村記念事業 写真展など多彩に
2012年4月19日



 琉球新報社は、祖国復帰40周年記念事業国頭村実行委員会、国頭村などと共催で「祖国復帰40周年記念事業」を開催します。記念写真展、沖縄返還要求運動海上集会再現、かがり火の再現などを実施します。

 【復帰40周年記念写真展】日時=4月20日(金)~5月31日(木)9時~18時、場所=国頭村観光物産センター(ゆいゆい国頭道の駅)特設展示室
 【記念式典・与論町との交流会】日時=4月28日(土)16時、場所=国頭村辺戸岬
 【かがり火再現】日時=4月28日(土)19時、場所=国頭村辺戸岬
 【北緯27度線での沖縄返還要求運動海上集会の再現】日時=4月28日(土)10時、場所=北緯27度線の海上、
 【復帰40周年記念行進】日時=4月28日(土)14時30分スタート、場所=宜名真漁港~辺戸岬、
 【国頭村・与論町児童ふれあい交流】日時=4月28日(土)~29日(日)、場所=国頭村・与論町、
 【問い合わせ】祖国復帰40周年記念事業国頭村実行委員会事務局(国頭村役場内)(電話)0980(41)2101
 主 催 祖国復帰40周年記念事業国頭村実行委員会
 共 催 国頭村、国頭村議会、国頭村教育委員会、琉球新報社
 後 援 国頭村商工会、国頭村森林組合、国頭漁業協同組合、JAおきなわ国頭支店、国頭村区長会、国頭村青年団協議会、国頭村婦人会

 各地のイベント
 東京では平和委員会


沖縄が日本本土から切り離された4・28サンフランシスコ講和条約から60年~沖縄と日米安保を考える集会を開催します!

スピーカー:伊波洋一さん(元宜野湾市長)、内藤功さん(元砂川裁判弁護団)

 日本平和委員会は、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効して60年となる4月28日、沖縄の基地と日米安保の問題を考えるつどいを開催します。
 先の知事選挙や宜野湾市長選挙で大健闘した元宜野湾市長・伊波洋一さんとともに、普天間基地の無条件撤去、基地のない平和な沖縄、軍事同盟を解消し憲法の輝く日本を実現するためにどうしたらいいのか、ともに考えます。
 
■日時:4月28日(土)午後2時~5時
■会場:明治大学リバティータワー3階1031教室(東京都千代田区神田駿河台1-1)
■参加費:500円

 各地の街頭では?
   名古屋

4月28日(土)午後2時から4時
栄 バスターミナル前
命どぅ宝 会員の 大城 節子さん 宇野 進二さんの路上ライブもあります。

 私の思いでの占領下

私の復帰闘争小史メモ

 その1-「馬小屋教室」

 2月1日、那覇地裁で「小学校5年でアメリカ民主主義と決別」と述べた。1950年代中期までこんな学校で過ごした。由美子ちゃん事件、基地強奪の時代だ。
無題1
  (「沖縄県祖国復帰闘争史ー写真集」から、28日まで思い出の闘い、事件―写真1~2枚掲載)
 
 しーみー(清明祭)と峠の蕎麦屋

 村のシーミーで国頭のお墓まいり。あいにく雨でお供えだけして帰る。普段なら1~2時間過ごすのだが・・・


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 デイゴの花
  塩屋橋(宮城島)

 沖縄の県花デイゴ、いま、松くい虫同様、虫に食われてデイゴ少なくなった。こんなに咲いたデイゴ最近あまり会わない。デイゴの咲き誇る年は自然災害(旱魃)の年ともいわれる。
DSC02062.jpg
 
 雨にぬれていた  DSC02058.jpg

  語れぬ村
 家に帰って改めてカメラを覗いてみた。怒りがこみ上げてきた。
 写真中央にトンネルが見え、左に集落が見える。白浜集落、昔は渡野喜屋と言っていた。1945年5月12日未明、敗残兵(皇軍)が、手榴弾投げて避難民約40人を虐殺した場所だ。3人の男性は日本刀で首を落とされ、銃剣で虐殺した「渡野喜屋事件」である。虐殺の様子は旧皇軍兵士森繁太『空白の沖縄戦』にリアルに書いている。
 私は遺族とともに検証記録『中村梁仁王虐殺碑を求めて』(ブックレットⅡ)を残している。デイゴの花を撮っているときは意識になかった。
 以前は、集落まで案内してガイドしていたが・・住む人々のこと思うとできない・・。
 なにげなくカメラに納め、後で、このような経験すること少なくない。
 名護から高江に行くとき、塩屋湾を右に回る最初の村です。 
DSC02065.jpg
 峠の蕎麦屋
   自家栽培
 名護から高江に行くには大宜味中学側から江洲の高原を回るのもいい。別荘でもにぎわいを見せている地域である。
 長男が自家栽培の蕎麦屋さんがあるので食べに行こうという。蕎麦はじめて、んぷらも自家栽培で前菜が面白いのだという。

       DSC02081.jpg
 前菜に大根と昆布の煮つけ、ジーマミトーフ(落花生)が出た。と。思ったら、自家製コンニャク、ザル蕎麦が出て、インゲンマメのテンプラ、シマラッキョウのテンプラ、オイモのテンプラも出てきた。
 御主人は蕎麦だけで勝負の方針のようだが、奥さんは畑で採れるもの食べいただきたいとのことのようだ。
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 まわりにはユリとカクチョウランの花が咲き誇っていた。
  森はGWにはイジュの花、ソウシュジュ(想思樹)の花、満開か。
         DSC02074.jpg
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琉球新報「金口木舌」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190322-storytopic-12.html

北海道女性ツアーと国頭・与論復帰40年記念行事


北海道新婦人の会沖縄ツアー
 具志堅徹幹事奮戦記


 沖縄梅雨入りか?
4月20日、久米島では観測史上最大の雨が降ったようだ。
朝カミさんに起こされる。今日は木曜日と勘違い。通院の金曜日だ。急いで朝食喰い、昨日(19日)カメラバッグ忘れたこともあって、帰りに辺野古に寄る。北海道から新婦人の会40人のツアー、高江まで足を延ばしたようだ。

 夜の夕食会に招待され、夜も学習だ。
 明日は伊江島に渡るようで、伊江島事前学習に「旧宝の海」文集「伊江島に建つ太陽碑」を全員が読んでいた。
多くの質問があった。

 ギャラリーに貼り付けするみなさん
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具志堅さんの説明に
 真剣な目
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  夜も奮闘する具志堅さん
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 沖縄出身の自衛隊員の死
  「命の雫」裁判の北海道弁護団も合流。
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 (裁判記事ー赤旗22日 15面に出ています)

 私の話の主点

  1、沖縄の心とは
  2、沖縄県民の目指す日本とはー石原尖閣列島問題含めて
    「日米案羽を日米平和友好条約へ」(55%)「安保廃棄」(14%)「多角的条約」(10パーセント)
     安保への疑問、あわせて79%(10年5月毎日・新報世論調査)
  3、沖縄非暴力の進む道(伊江事前学習含めて)

 辺野古・高江の闘いに深い関心示した。
2012年2月のある日の私の抵抗


 腰の強さで
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元高校教師高江3羽ガラス宮平さん
   寝て抵抗DSC05716.jpg
 土嚢に座って
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毎日辺野古のみ、脱水症、熱中症で
 脳梗塞に怯えながらDSC05764.jpg
  泰然とタバコ吸いつつ、癌も進行していたDSC05781.jpg
  (辺野古・高江「誰も知らない基地」(イタリア人ドキュウーメント監督作成に映像出てくるようだ)
 沖縄防衛局職員へ
  座って説得・抗議

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土嚢1個守るにも寝ている
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 泳げないのに海上ヤグラで24時間
  ともに闘った女性
 闘いの中で悠然とラーメン啜る
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 (公開してゴメンネー00さん)
座って「話をしよう」(11年2月28日)
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 4月28日は辺野古・高江・辺戸岬へ
  やんばるの自然と復帰闘争の歴史を


琉球新報
祖国復帰40周年 国頭村記念事業 写真展など多彩に
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190231-storytopic-22.html
お知らせ
沖縄復帰40周年 与論町記念事業 海上集会再現も
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190280-storytopic-22.html

琉球新報社説
米軍再編見直し 許せぬ固定化ロードマップ
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190247-storytopic-11.html

沖縄県「安全政策課)主任論文ー外国の識者はどう見ているか必読



辺野古テント村9年目に

静かな時ー何をなすべきか


 今、辺野古の現場・高江の現場「イクサ」の状態ではない。孫子の兵法の如く、動かざること山の如し、日米政府も策略をめぐらしています。「敵」を知ることは大事なこと、「4・28」「5・3」「5・15」と「味方」も静かに、知恵と連帯行動で力を養い、草の根の運動広げていること知っています.
各地域で企画している学び企画及び行動を成功させることです。沖縄で開催される5・15行動(平和センター)、本土と沖縄で企画されている新聞広告を着実に前進されるべきです。これらは民衆の深部の力を呼び覚まし、確固とした民意の形成力を高めます。

GWには日米首脳会議、6月には高江再開です。

また、復帰40周年で、国頭村では辺戸岬のかがり火(27日夜)、海上集会(28日)再現され、米軍占領期と復帰運動とはなんであったか。過去と現在を学ぶ機会になるかもしれません。

 高江の工事は「大米組」で、連立政権国民新党下地幹郎幹事長の弟が社長で沖縄建設協会の会長に就任しました。基地建設に参入して大きくなってきて、戦前から基地に依存してきた国場組と骨肉の争いをしている。6月の沖縄県議選挙もし烈になってきます。
 
6月は、MV22P酢プレイ反対宜野湾市民大会も予定されています。

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は、『孫子』

 カナダからのメール
  我々が学ぶもの少なくない


 沖縄県は官制シンクタンクともいうべき「地域安全政策課」を立ち上げ、主任研究委員の一人がアメリカのシンクタンクに論文発表したことは新聞でも報道されました。
 カナダのNGO[Peace Philosophy Centre ]から、沖縄BDのメールに論文が送られてきました。

すでに、「動かぬ基地」(QAB製作)、昨日、1昨日と添付してきました。動かぬ時、私たちは「敵」を学び、沖縄チムグクルの絆を広め、深くする日常が求められる。

 国際的には、6月にはブラジルリオで地球サミットが20年ぶりに行われます。1992年地球サミットに日本の首相は参加していません。「軍事費と貧困」が主要テーマであるようだ。世界NGOの果たす役割は大きくなって来ています。
 92年にはNGOは「地球憲章」を採択しました。私は期待しているのですが「平和の文化」から「平和の権利憲章」が宣言される希望です。

 日本の運動で
  「軍事費を削って教育・福祉・被災地へ」のスローガンは国内・国際的にも輝きます
  「軍事同盟(日米安保)から憲法前文・9条が輝き平和友好への道」も同様です。
 特に、ジャーナリストの役割が課題となります。

 動くであろうために下記のブログ読むこと大事です。沖縄県(知事)が何を考え沖縄の有識者の質も問われ、学者の真価のも問題、沖縄の民衆の力の評価含めてです。、、沖縄に思いを寄せる外国の学者が、どう見て、また、世界に広げているか、学べます。ガバン氏の『属国』は必読の書と思います。
 昨日はアメリカのシンクタンクの論理、学者、ジュゴン裁判の弁護士など紹介しました。合わせて総合化することも必要です。辺野古は学際的協同の歴史です。国際化も重視(ジュゴン裁判)してきました。

 私は辺野古の闘いは「第4の権力」(メデイア)との闘いでもあったし、連携の模索でのありました。中央紙は基本的「大本営」報道と規定してきました。

沖縄についての「誤解」-沖縄県「地域安全政策課」主任研究員の米国シンクタンク寄稿文について

必読文書ー拡散可能

2012年4月17日

ガバン・マコーマック 乗松聡子

http://peacephilosophy.blogspot.ca/2012/04/blog-post_18.html


 このメールから思い出す
  二つのこと

 その1、06年カナダバンクーバー世界平和フォーラムに参加し「軍事基地問題」分科会で報告させてもらった。
 「憲法9条」分科会の組織者に乗松聡子女史がいた。フロアーからの発言は2分、どんなに知恵絞っても「沖縄と憲法」語れない。休憩前に特別に手をあげ、発言を5分くださいとお願い、分科会も了承した。しかし、最後に司会団から「1分」の時間で発言となった。司会団(コーデネイター)には、乗松女史・ジョセフ・ガーソン氏もいた。
 発言拒否を行った。気まずい空気が流れ、日本から参加した幾人から僕に失礼だの意見もあったようだ。沖縄の歴史からすれば、2分で語れないから5分を要請したのであって、礼を尽くしたと私は思っている。「頑固が取り柄」を貫いた。ぼくから「頑固」や「愚直」をとったら何も残らない。

閉会集会の宣言文に沖縄問題が事前に入ると聞かされていたが、宣言文から抜けていた。
 ピース・ボートが舞台では沖縄エイサー上演していた。英語できる友人に入れるよう努力してもらった。「9条」分科会は苦い思い出である。

 でも、それは、よく年国際反基地ネットワーク結成総会(エクアドル・キト市)で総会・分科会・展示場で積極的に発言するバネにもなった。

 その2、「サンフランシスコ体制」の中の「銃剣とブルドーザー」(1955年)の時期の本土紙の沖縄報道である。1955年1月13日、有名な「朝日報道」である。1954年の中央紙全体の沖縄報道14件、「朝日報道」も日本の新聞社、記者が書いたのではなく、アメリカの人権団体ボールドイン氏から日本の人権団体への手紙の掲載に石川達三氏らの談話である。
 沖縄を伝えない伝えない大本営報道体制が敷かれていた。今でも自国の重要問題がアメリカから伝わるという大本営報道は変わらないとするのが私のメデイア・ジャーナリズム批判の根底にある。

 沖縄県のシンクタンクの論文が、沖縄で公開されず、カナダからもたらされる。実に滑稽ではないか。
 そして、ブログ・メールなどが「第4のメデイア」と言われるゆえんである。福島原発集会で福島の代表は「一人ひとりがジャーナリスト」と発言した。

 いくどか批判として、日本の進歩的ジャーナリストも国の形論に勇気失っていると、僕は思っている。

(明日は復帰40年ー4・27・28辺戸のかがり火・北緯27度線海上集会再現に関連して)

19日第2信ー後写真コメントします、まず公開

今日の辺野古‐写真のコメントは昼の仮眠終えて
 ごめんなさい

 辺野古散歩9年目に入るテント村
  8年前と同じように風雨が強かった
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朝新聞読める日


 その1ー石原都知事の「尖閣列島買収」

  石原は旧帝国軍の「絶対国防圏」を南西諸島で実力行使の野望か
 沖縄2紙とも紙面を大きく割いている。石原は「カニハンジテ」(ボケて)いる。その手法もアメリカで行い「虎の衣を借りたキツネ」と日米同盟の本城で行っている。
 都が買って、沖縄を防衛するという、つまり、都の財産を守るために国は中国とたたかえという事だ。石原琉「絶対国防圏」と言える旧帝国軍隊の国防圏を思い出す。アメリカが「シー・エアー戦略を東に引き上げ始めたことに、自己顕示欲の深い石原の「カニハンジ」があらわれたと見る。

 「絶対国防圏」とは、1943年御前会議で決定された日本の防衛線である。千島・マリアナ諸島、ビスマルク諸島。チモール、スマトラ、インパール(インド)を日本の死守すべき範囲と決め、ガダナルカ戦線では将兵は見捨てられ、餓死・マラリア・疫病で死す太平洋戦争の実相が継続される。マリアナ海戦、グワム戦線の途中で絶対国防圏はマリアナ諸島が外され沖縄・台湾と後退し、グワムの将兵と移民は見捨てられ、がダルカナルが再現される。関東軍が沖縄へ集結される。南京事件の歩兵砲大将牛島が司令長官、南京事件の長勇が参謀だ。アメリカは沖縄占領の前に日本全国への空襲で政治的戦略、東京空襲は最後の警告でであった。
 天皇は国体護持のために沖縄戦の戦術を持久戦とし、国体護持のために1木1草絶えるまで戦えの作戦を出した。

 石原が「尖閣列島」戦争起す発想は旧帝国軍隊の非科学と同じで旧態的戦争観が姿みえる。陸上自衛隊上陸させる丘、戦闘機とミサイルで玉砕だ、アメリカはMDS戦略から後退するのに石原はミサイルに飛び込んでゆく、

  中国のミサイル目標は沖縄に非ず
   東京都西新宿2-8-1(GPS03・5321-1111)である

現代の戦争は「テロとの闘い」という。石原の防衛思想は「敵を中国」にした現代の妄想である。朝鮮の『人工衛星』騒動で海兵隊は存在価値を失った。イージス艦。PAC3が前面に出てMD戦争ごっことなった。イジース艦は独自で人工衛星とらえきれなく問題となっている。PAC3は20キロ内の戦闘機は落とせても、ミサイルにはおもちゃだ。イージス艦尖閣列島配置してもミサイル捉えきれないこと証明。戦争ごっこは現代の「カニハンジ」のオモチャだ。「カニハンジ」がオモチャ遊びし、理性が失せているから、とんでもに事態を引き起こす。北朝鮮の金の孫より悪いともいえる。

  沖縄は万国津梁の邦で武器なき歴史と未来を持っている
  中国と深い歴史および現在の交流を広げている
  尖閣列島などのアジアの領土問題は平和的に解決すべきと主張している

 武力的威嚇・行使を主張しているのは、敵地先制攻撃、尖閣列島武力防衛論は東京都庁が震源地で防衛省日米作戦司令室は横田基地である。
非戦の民沖縄を攻撃するのはより人道に反する、好戦の牙城東京を叩け、現代の戦争は政治戦争の性格を持っている。

われわれは、全世界に宣言をする、中国人民にも宣言する
われわれは、自らの安全をすべての知恵と能力を使い、天皇の軍隊で八重山はマラリア、都は飢え、沖縄は地上戦の言い尽くせぬ過去を持つ。

 現代知らず「カニハンジ」知事とそれを支える東京を許せない。猪俣副知事カンパですぐ金集まるという、お金発想の安全保障で、金で琉球。中国人民の血を流してはいけない。血を流してもいいとカンパをする東京都民は自損行為だ。知性あるべき首都がおかしい。
イ無題

 その2-普天間の補修
  マスコミは日本政府「反対。苦悩」と書いていたが、日本政府にアメリカと喧嘩できる過去は無い、すべて、受け入れるのが一般常識、マスコミは政府の努力書く事で政府を免罪する、これも大本営報道の一つだ。
 宜野湾市長コメント拒否、これの当初から予想、彼は日米同盟および極右的思想を持つ。沖縄県もあいまいだ。
 明日、これらの問題に関する外国の学者たちの見方、論文を紹介しますので、これ以上メモしない。


 愚直と継続の顔

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 看板は0000日、左は平良悦身さん、04年71歳でカヌーで出た。あの日から環境アセスの終了(08年まで)常にカヌー、ゴムボートに乗って阻止、監視活動。現在は月から金午前中沖縄市から座り込み、編み物読書で健康的日々送っている。
 右、篠原孝子さん、テント村局員として8年毎日集金、多くの任務を持ち、テント村の宝、1週間の出来事をNO BASE 3を手書きで発行779号に達している。テント村で起こる問題、ニュース、全国からの手紙など掲載、ヘリ基地反対協ブログで読めます。また、県内新聞読書欄への投稿は県民励ましている。
 田中君、海上闘争以来、辺野古に住み着き、ツアーなどの応対、辺野古関連サイトへの情報発信、現場などへの説明、それぞれが特技生かしてテント村を人間の輪で支え、テント村を維持している貴重な役割を果たしている。
 わたしだが、ヤンメームン(体調不良)もっていて、ヤーグマイ(家籠り)でメール、ブログでの発信に「第3の人世」の務めか。


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アートの壁
 歩く、-バーナーオクッテネー
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今日の歴史(琉球新報)から
 住民と住民の対立と描かせない―本質は何か

 今日の琉球新報「今日の歴史」は、これまで取り上げてきた事件ほぼ日記として掲載されている、
4月19日「辺野古漁港で普天間代替施設反対の座込み始まる。天候不良で海上のモーリング調査は延期されたが、漁港内の資材置き場の設置工事が行われ事実上の代替工事着手、防衛施設局職員と市民団体がもみ合うなど緊張状態が続いた。」
 かもしれないが、用語として工事の着工ではなく、アセス前の事前調査である。また、「もみ合い」という現場状況であるが、それは、対峙が正確であろうことは写真が証明する。
 私が「第4の権力」(マスコミ)との闘いと言いますが。一般的にマスコミは争いを書きたがる、それを正し、本質論を重視した記者の視点を求めることも闘いである。歴史は権力者は住民の「争い」にし、争いの根源を糊塗する。どちらかと言えば私の役割はマスコミ対応と、現場で起こる住民同士のトラブルの和解が中心でかなり夜徹したこともある。現場の請負業者のトラブルも最終的判断を下す。いろいろな団体との問題も同様で、事件化してはならない。
 1月19日の写真である
   故金城裕治さんの周りに圧倒的に若い防衛施設局多さと、老人との「もみ合い」になりますか。

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 防衛施設局との交渉
 座って、むしろ敷いて「もみ合い」できますか

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 磯・里の散歩から
夏に向かう磯と里、やんばるの森は魅力
もうアザミ終わりだが磯に1輪
 種は成熟し新しい命は磯1杯に根づくであろう
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今日の歴史
 米軍が、日本軍の首里城外郭陣地に総攻撃
  月桃の咲いた日、
  ユリも血に染まった。
 1996年映画「ガマ主題歌として「月桃の花」歌生まれる
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 里にイジュの花森へ、南の森から北の森へイジュの開花が
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琉球新報社説
石原氏尖閣発言 沖縄の自治権を侵すな/次世代の共生へ道筋を
http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-11.html

(明日は沖縄県「地域安全課」主任論文ー外国の学者はどう見ているかー必読の文書公開)

今日は辺野古テント村開設9年目に入る



辺野古テント村8周年

もし、あの時代、あの時、あの日・・・

 歴史には「もし」は禁物である。でも、偶然とも言うべきことが、あるいは歴史の必然かもしれないが、意味のあることであろう。辺野古闘争のあの日、あの時、あの時代、わたしが何を高校生から学び、また、何を実戦していたか、2012年4月19日(テント村2923日)にあたって、8年前の4月19日の回想メモとする。

 泡瀬と辺野古

  もし、あの時、あの日、泡瀬のイベントにいなかったら
 04年4月18日、泡瀬のイベントが開催されていた。退職から半月たち、泡瀬の前川誠治事務局長にも会いたかった。彼も昭和18年生で、早生まれですでに定年退職し、泡瀬干潟の事務局長として奮闘していた。
 現職の頃、全国高校生平和集会など平和教育でコンビを組んでいた。この日、泡瀬の運動している元同僚のH氏から重要な情報が入った。
 19日未明、那覇防衛施設局「辺野古事前調査強行」との情報。正確な具体的内容をも示されていた。緊急発進で当初から予定していた布陣を敷く。
 もし、あの日、泡瀬にいなかったらと・・・・ですから毎年この時期に開催される泡瀬のイベント度に19日未明の「暁の攻防戦」をうみだす。
 平和問題・環境問題、市民運動の繋がりがいかに大切であるかの例示であろう。と、思うのである。

干潟を守る日2012年泡瀬
湿地のグリーンウエーブ2012(干潟を守る日2012年泡瀬)の案内です。
日時:2012年4月22日(日)、午前10時~午後4時
場所:沖縄市泡瀬干潟、ミナミコメツキガニの浜(沖縄市ITワークプラザ前の砂浜)
日程・内容
10時~14時:干潟観察、アーサ採り
14時~14時半:干潟を守る日宣言採択
14時半~16時:サルサダンス、ベリーダンス(「クラベリオ」(パティ&けんじ)、ミニコンサート(JUJUMO)
※泡瀬干潟で採れた貝、アーサ汁あります。
※ポストカードなどの販売あります。
詳しくは下記ブログ

http://www.awase.net/maekawa/2012guri-nue-buawase.htm

 来るべきXデー向けて
  カヌージュゴン号、ボートジュゴン1号

 19日の攻防(百日闘争日記旧「宝の海」)
「 午前5時半、那覇防衛施設局は業者含めて約80名で押し寄せてきた。陸上で調査船阻止の闘いが始まる。カヌー隊7艇12名、女性は4人で71歳の女性が嵐の海に漕ぎだし、陸上が突破されたら、海で命をかけて阻止する体制であったのです。私は沖縄国体などで漕艇競技の監督、競技指導委員を務めた経験を持ちますが、その日の海は風が強く、波が高い、横波を受けないよう最後尾から声をかけるも、自分の艇を操縦する以外なすすべを持ちません。カヌー隊は漁港入り口を封鎖するも、風に流されて停泊できず、堤防に縄で結ばざるを得ません」

すでに、わたしや仲間たちは、海の闘い想定、カヌー・ボートを購入、カヌーは日本全国から寄贈があり、約20艇になって、日ごろは東恩納琢磨氏が平和修学旅行の海体験学習に使用していた。
 もし、あの時、カヌーやボートなど準備していなければ・・・と思うのです。
また、1年間朝8時「土曜学習会」を辺野古の浜で行い、アセスに関する学習を深め、人的、組織の繋がり、Xデー(4月19日)に向けて準備、たとえば「沖縄ジュゴンアセスメント監視団」の結成である。
 (旧「宝の海」-「百日闘争記」参照)
無題C
 (ジュゴン1号、別の場所でカヌー10艇曳航写真は『沖縄道ジュネー』浅見裕子から以下同)

 人間の鎖の非暴力
 陸の攻防、作業ヤード作成、闇を利用し、作業ヤードの機材降ろされた。10時ごろ撤収し、仲間の散った。11時再度襲ってきた。緊急体制(携帯電話の威力)で再攻防戦、テント村設営、今日に至る。騙されたことは騙されない知恵を獲得する。
 阻止のために、沖縄の闘いで蓄積されたさまざまな「訓練」を行う。相手防衛局は80人体制、少ないとき縄で人間の鎖を完成させる。
無題A

教師として何を学び
  21世紀をどう描いていたか


 92年宜野湾高校に赴任していた。宜野湾市の基地の成り立ち、あるいは学校周辺の亀甲馬墓群やコンベンションセンターを1時間の「教室」とし野外学習で教えていた。
 嘉数台地で沖縄戦・沖縄基地群を遠望し「21世紀に生きる君たちは普天間基地を返還させて沖縄一の街を創ることだ」と説いていた。
 当然、宜野湾の基地闘争と伊江島の土地闘争は一体で有り、この実践メモは『沖縄の太陽物語』(1995年7月)とまとめる。
 阿波根昌鴻翁の非暴力の薫陶(直接的な会話もあるが、子どもたちへの語り、訪問者への講義をほぼ毎週聞いていた)受ける。
 高校生平和ゼミナール(全国平和集会など)から「平和の文化」と「日米平和友好条約草案」(千葉平和ゼミナール)を、高校生から学んでいた。
 「平和の文化」は、1999年9月13日国連総会は「平和の文化宣言」「文化宣言10年行動計画」を決議する。
 「日米平和友好条約」は、96年9月、アメリカ行動でペンタゴン、国務省、議会筋、シンクタンク、NGOで英訳文にして、海兵隊撤退論、よき隣人論とともに要請、論争していた。
 私の社会科教育論は21世紀を次の柱として到達していた。
  1、21世紀の人類は平和の文化を確立する。(現在は「平和の権利宣言」が課題となる、6月の地球サミット(ブラジル・リオ)に注目している)
  2、21世紀の人類は生物多様性の地球を保育する(92年地球サミット、リオ条約)
  3、21世紀のアジアは「東南アジア平和友好条約」の道こそ、進むべき道である。
  4、沖縄の過去・未来は「万国津梁」への道である。
 そして、教師定年退職あいさつ「3月23日定年退職の挨拶、その一部は琉球新報コラム「ハイサイ」(3月31)に紹介されましたが、私は生徒たちに「私の第二の人生は生きながらえことではなく太く生きること、国民の税金で38年生活し多くのことを学んできました、社会という学校で国民に還元すること、名護市に基地を移設する稲嶺知事、岸本名護市長に勝つ人生に向います、皆さんは、街角で、新聞やテレビで私に会う機会があるでしょう。私はこの木の腰掛に38年座って来ました。4月1日からは腰掛に座る必要はありませんから平和の文化を築く一筋の道を歩み続けます」であったのですが、4月19日以降、テントに座
り、新聞やテレビにでる機会が増え始めました。」(旧「宝の海」-百日闘争記、のち『愚直』に収録)
 辺野古の非暴力と
  反戦地主

 阿波根昌鴻はハンセン地主のシンボルでもある。辺野古の指導的役割を果たすみなさんには反戦地主、一坪反戦地主が少なくない。阿波根昌鴻の非暴力、非理法権天、『5本の指』の生きざまを、それぞれの分野で享有していた。
 私は、高校社会科の教師としての実践であった。最後の学校、名護商業高校では市民運動としてヘリ基地反対協幹事・代表委員に就くとともに、「ハンセン病と人間の尊厳」と沖縄愛楽園を野外学習の拠点とし、やんばるの沖縄戦と人権を、子どもたちも国家賠償裁判にかかわった。子どもたちの「愛楽園新聞」数百枚は、愛楽園自治会に寄贈した。
 実践記録やメモを残すことは、現在を語り、未来への糧となる。

 (明日はカナダ・オーストラリアの研究者から見る沖縄県(知事)の政策)

昨日の「宝の海」と関連記事
沖縄タイムス社説
[尖閣購入計画]石原知事の狙いは何か

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-18_32619/

 前川さん頑張っています。
  この時期に発表心憎いほど戦略的
沖縄タイムス記事
絶滅危惧種のフジイロハマグリ、泡瀬で確認

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-18_32656/

4・28を前にしてー復帰闘争碑・石原「尖閣列島買い取り」



「4・28」「5・15」
 埼玉のsさんの訪問アリ。各地の沖縄の会の活動新聞届きます。大阪の会の機関誌「沖縄座りこみ抵抗権 日本国憲法法体系でも侵すことのできない権利(1)」(宝の海3月14日)の要旨が紹介されました。沖縄返還以前の沖縄人民の抵抗権の正当性、それは、また、現在の闘いの正当性を具体的闘争から書きつづったものでした。
大阪の会のみなさん、いろいろありがとう。

 大阪の会の行動
  第二月  16:00阪急豊中駅前ビラまき
  第二火  17:00阪急駅前ビラまき
  第二木    17:00池田駅前ビラまき
  第二金  17:00千里中央ビラまき
  第三水  17:00JR大正駅前ビラまき
 などの行動などなどです。各地で行われる小さな沖縄行動は、とても、重要で、前進している。


下記は沖縄県国頭村辺戸岬の復帰闘争碑です。

にか無題
 (この写真は15年ほど前、沖縄戦後史学習のために撮影したもの)

辺戸岬の”祖国復帰闘争碑”の全文
________________________________________
祖国復帰闘争碑
全国のそして全世界の友人へ贈る。
 吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ。

 “鉄の暴風”やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された。
 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ、全国民に呼びかけ、全世界の人々に訴えた。

 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ。一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。

 闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。

 私たちは、この碑文から何を学ぶであろうか。

尖閣諸島「年内に購入」 石原都知事が検討

石原東京知事がアメリカで「尖閣列島」を買い取りとの報道、沖縄県知事「安定性」と肯定的発言。東京都が買って、「都民の財産守れ」と与那国や先島諸島に自衛隊増強せよと、軍事要塞基地にするつもりであろう。
 東京、名古屋、大阪と日本の主要都市が「狂って」いる。
 
  琉球・沖縄は「万国津梁の邦」である。

 東京に守ってもらう必要ない。沖縄の領土と人民をサンフランシスコ条約でアメリカに「売った」のも「東京」であり、沖縄戦で「国体護持」の捨て石にしたのも「東京」だ。
 
辺野古新基地に固執するのも「東京」だ。

 東京都民は「愚か」ではないと信じる。東京が米国追従、アメリカの「ゆすり」と決別すれば、沖縄は平和な島になれる。中国を仮想敵と煽るのは、世界の流れに反し、日本が孤立する道だ。アメリカがキューバ敵視して米州機構で「孤立」へと進んでいる。親米国コロンビヤ、メキシコも米国離れが深刻化している。

 憲法9条持つ日本は東アジアを紛争の平和的解決を提案することが、今、理性的に歩むことだ。石原都知事は、大阪の橋下の原発ノーの「打ち上げ花火」に自己存在を示すプロパガンダ効果を狙ったか。

学習資料・拡散して

QABニュースレポート
検証動かぬ基地 vol.108 「辺野古案」アメリカの有識者はこう見る

http://www.qab.co.jp/news/2012041735007.html
 アメリカのシンクタンクの発言の中から何を読み取るか


琉球新報社説
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190087-storytopic-11.html

 明日はテント村8年・もしあの時、あの日

155ミリ榴弾砲闘争と「三つの記事」-町の「サミット」

 伊芸エリアーにて
   海勢頭豊「喜瀬武原」口ずさむ

 うるま市の病院で点滴や温熱治療受けて、毎回辺野古テント村に寄るのだが、意外と時間がかかり、昼食を伊芸エリアー取ることにした。1973年から1995年までの県道104号線越え155㎜榴弾砲射撃訓練抗議行動、復帰闘争、そして、授業で何を教えてきたか、回想した。
 家に着いたのが2;30分ごろ、仮眠をとって新聞開き「三つの記事」に注目(関心)を持った。
 これらの記事について、散歩で頭の整理をしようと思ったら、「ひーじゃーやー」(山羊小屋)サミットが開催されていて、廃鶏を焼いて「地域」論口角泡飛ばしている。長い間サミット(町内会の暇人会?)に参加してないので、参加することにした。辺野古論、沖縄文化論など質問は雑多。こんな無責任サミットが田舎町名護のいいところ。晩餐会の費用(廃鶏)400円なり。散歩の時間2時間半に及んだことになり、『三つの記事』につての解説は明日になるか。

いつも急ぎ足
 久ぶりの伊芸エリアーでラーメン食べる
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クバの花が咲いていた DSC01968.jpg
クバの森神々の住む森、古代から人間と神の繋がるところ、神々も焼かれたのか。
 雨・曇り晴れに浮かぶ伊芸の山

 実弾演習でいくども焼かれ、地肌が頂上に見え、松、イジュなどが生えてきた。155ミリりゅう弾砲止み、16年の歳月で琉球松などがよみがえってきた。

 職員朝礼にすべり込み
   こんな闘い
 1970年12月国頭村実弾訓練は阻止したが、米軍と日本政府は宜野座村中川の森に砲座設置、県道104号線声の訓練を復帰翌年から開始、私は毎回抗議集会に参加している。
 1980年代後半、那覇市の学校に転勤、朝未明に浦添市を高速道路で抗議集会に参加、8:30分の職員朝会に滑り込みが1995年まで続く、沖縄県民の「愚直」な闘い回想するとともに、授業通信資料に目を通した。

 1973年ー年間3回の射撃訓練、弾数235発
 1991年から訓練は年35回,33,35、35、33、となり、93年の弾数は5606発打ち込んだ。90年代だけで2万発を超え「山が泣き、不発弾の倉庫」になる。
 1972年から1994年まで山火事は130件だ。
1995年少女暴行事件後、SACOで本土4地域に訓練移転。
 沖縄以上に訓練はひどい現状のようだ。

 MV22オスプレイの普天間配備後、日本全国が訓練移転となる。小さい記事だがSACOのあのキャンベルが日本・韓国訪問、
「シー・エア・バトル」戦略の詰めに来たか。メールで済州島軍港反対の連帯、日本語・英語で流れてくる。

 1980年代後半から1998年3月ごろまでガイド終わって、海勢頭豊のライブ・ハウスで104号線の闘い歌った「喜瀬武原」など聞きに行ったものだ。
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 沖縄自動車道をわがものと走る米軍車両。
東京の友人から走行中に電話入る。
ドキュメント映画『誰も知らない基地』(イタリアの監督)の上映会見たようだ。私がかなり出てきて、感動したとの内容であった。
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「三つの記事」

その1-「まだ戦争は終わらない」?首里高校不発弾「騒動記」
沖縄タイムス
不発弾 古都を封鎖
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-16_32548/

 その2-復帰闘争記念碑
 -明日の「宝の海」主題ー復帰闘争記念碑から何を学ぶか
沖縄タイムス
闘争碑修繕 40周年に語らい
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-16_32549/

その3-泡瀬の闘い
 もしあの日泡瀬にいなかったら
 「宝の海」4月19日ー「04年4月18日の友情」?
琉球新報
多様な生態系学ぶ 泡瀬干潟で観察ツアー

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190040-storytopic-7.html

わが「散歩」大北区5班「サミット」会場
 散歩はいつもカメラ持つ。共同菜園を営みヒージャー(山羊)も飼っている。今日の会議は隣組大北区5班から民間・公務員3人が定年退職、3人が公民館借り切ってヒージャーグワッチー(山羊の御馳走)をふるまう会議のようだ。なんでも食べられるようになって、心ワクワク。
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 今晩の歌は
 海勢頭豊

 「喜瀬武原」と「月桃の花」でお休みだ。
 若き日の豊さん
http://www.youtube.com/watch?v=3h2b_UpYxy4
 155ミリの闘いの初期、ヘリ基地反対協議会事務局長仲村善行氏は、この闘いの中の一人であり、記録残す必要あり。
 今の豊さん
 
http://www.youtube.com/watch?v=tdTBKvXtD_k&feature=related

脱安保・脱原発


 脱安保・脱原発の声と行動を全国で強めよう

閣僚が来れば来るほど
 普天間基地危険な訓練増加する

沖縄タイムス
普天間第二小で119デシベル超
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-15_32508/

 「ゆすり」「タカリ」のアメリカ
  民主党政権ー 日本の税金を基地建設、海兵隊の訓練費用もすべて認める?

<在日米軍再編見直し>政府、米の移転負担増要求に苦慮
毎日新聞 4月15日(日)10時21分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120415-00000005-mai-pol

軍事費国際行動デー

辺野古
・バナーアクション
・ピース・トーク
高里鈴代(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)、安次富浩(ヘリ基地反対協)
日時:4月17日(火)13:00-
場所:辺野古テント村
連絡先:安次富 090-2392-9161

 リボン、バーナー、写真、あなたの思いこめた作品もってきてねー!

普天間・嘉手納・高江でも開催されます。

 4月28日(土)1963年沖縄返還国際デー(民族屈辱デー)を復帰40年の節目に各地で
 5月15日(火)沖縄返還40年
 6月23日 新安保条約発効48年

自衛隊の事故も増えています。ヘリ墜落に続いて、沖縄では
 QAB
http://www.qab.co.jp/news/2012041534975.html
4・28「サンフランシスコ・安保条約」学ぶ集い(東京)
 日本平和委員会
 講師ー伊波洋一(元宜野湾市長)
 詳細はこちらから
http://j-peace.org/2011/pdf/120428ihakikaku.pdf

軍事費削って平和で飢えない世界をー世界統一デー




第2回GDAMS沖縄アクション
「軍事費についてのグローバルアクションデー2012」

2012年4月17日、世界中の人々が『軍事費についてのグローバルアクションデー』
(GDAMS, Global Day of Action on Military Spending)に参加します。


沖縄もアクションに参加し、世界の人々と連帯します!
辺野古
・バナーアクション
・ピース・トーク
高里鈴代(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表)、安次富浩(ヘリ基地反対協)
日時:4月17日(火)13:00-
場所:辺野古テント村
連絡先:安次富 090-2392-9161


 リボン、バーナー、写真、あなたの思いこめた作品もってきてねー!

拡散して世界の隅々で!

○高江
・バナーアクション
済州島と連帯するバナーで参加します。
by 「ヘリパッドいらない」住民の会

○普天間
・バナーアクション
日時:4月17日(火)14:00-
場所:普天間米軍基地野嵩ゲート前
「普天間爆音訴訟団事務局前」(宜野湾市普天間1-1-14)に集合(10分ぐらい前まで)
by 「普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団」
連絡先:訴訟団事務所:893-5004(当日:090-9787-3992)

○嘉手納
・「サンフランシスコ講和条約日米安保条約」学習会
~講師 大田昌秀さん~(元沖縄県知事)
日時:4月17日(火)19時~20時半
場所 沖縄市民会館中ホール
by 第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団
連絡先: 第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団事務局
098-934-2546

赤旗主張
米軍移転経費
外国の基地にまで税金使うな
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-13/2012041301_05_1.html

か無題

意見広告要旨

http://homepage3.nifty.com/anpohaiki/index-box/120124ikenkoukoku-yobikake.pdf

ミサイル「狂騒局」の中でー辺野古散歩



北朝鮮「人工衛星」(ミサイル)狂騒局
 
朝、うるま市へ、車の中でミサイル失敗報道流れる。テレビはドコモ「人工衛星狂騒局」、オスプレイ事故、沖縄の基地の嘉手納ハリアー戦闘機事故など霞む、普天間にF18戦闘機訓練、普天間F15ダンバーと危険がいっぱい。北朝鮮ミサイルより危険な状況である。

 QABニュース見た。完全武装の自衛隊員が宮古基地、銃持って走っている。滑稽だ。なお、滑稽なのは、防衛省にPAC3を配備している。銃はでミサイル落とせる?誰を撃つために走っているのだ?PAC3を東京で撃ったら誰に落下する?20kmは避難区域指定?

QABニュース

「ミサイル発射失敗」 安堵の声・危機管理へ疑問も
http://www.qab.co.jp/news/2012041334951.html

  QABニュース
軍事ジャーナリスト田岡俊次さん ミサイル発射と日本政府の狙いは
http://www.qab.co.jp/

 東アジアは東南アジア友好条約に学び、9条を持つ日本が積極的に提案することだ。

 MV22オスプレイは沖縄配備に留まりません。ヘリ空母エセックスからMV22オスプレイ、垂直離発着戦闘機も積む、強襲揚陸艦ボノム・リシャールにバトンタッチしています。岩国・富士含めて訓練地域になることは確実です。日本の空を「空飛ぶ棺桶」「未亡人製造機」が飛びます。
 下記にMV22オスプレイの映像添付します。

 
 金曜日の辺野古テント村

帰りにテント村による。
南西の風強く、時折、雨が打ち込んでくる。

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ヘリ基地反対協幹事の仲本さん
  金曜日村長引き受ける
 最近、仲本さん、平和丸の海案内で奮闘している。僕が体調崩して、操縦できず、海からの学習困っていた。
 タオル巻いて決意、少し、照れているか。
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 海兵隊の射撃演習途絶えることなく撃ち続けている。
 弾薬庫近くの森の中に、クチナシの花が乱れて咲いている。小雨も降るが、車止めて、道路を歩いた。
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クチナシ花は今週で終わりかDSC01952.jpg

 アコ―の新芽がクチナシの花と
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 アコーの新芽がDSC01959.jpg
 花の蕾のように咲き始める
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  雨に濡れたアコーの新芽DSC01955.jpg
 やんばるの森は夏に向っている。銃声の音が無ければ、
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沖縄の5月の森を包むイジュに蕾がDSC01964.jpg

QAB
モロッコ・オスプレイ墜落 知事「県内への配備はNO」
http://www.qab.co.jp/news/2012041334956.html

 週末は渡哲也「くちなしの花」でお休みを

http://www.youtube.com/watch?v=92UDtNYFR94&feature=related

13日第2信ーミサイル「戦争ごっこ」の中の沖縄基地


 普天間返還合意の日の沖縄基地

オスプレイ墜落
 琉球新報
無題
タイムス
無題2
ハリアー着陸トラブル 嘉手納基地
 タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-13_32422/

アメリカは報復国家と書いた。普天間返還合意の日に、普天間・嘉手納基地大暴れ、

普天間 外来機が爆音 返還合意16年
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-13_32401/

 琉球新報社説
オスプレイ墜落/県内配備 断固阻止を/県民全ての命の問題だ
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189899-storytopic-11.html

再掲載
 「動かぬ基地」QABレポート
 学習に拡散
http://www.qab.co.jp/news/2012041134919.html

石川啄木を沖縄から見る(最終回)ー「検証動かぬ基地」拡散・学習


 石川啄木没100年の命日に
 啄木を沖縄から見る(終わり)

 沖縄自立的社会科の授業目指して
  高校「現代社会文化編」の自主編成

 「啄木を沖縄から見る」をメモしてきました。現職の頃、沖縄の社会科教師として、教科書を沖縄で組み替える授業を目指してきた。特に「現代社会」は環境・文化編は多様に組み換えが可能であった。授業は「現代通信」とプリント、特に、重視したのは「もの』教材である。
 「私たちの回りには、物語、「もの」が、ゴロゴロしています。教師の目で、命を与えると素晴らしい教材として生き返ってくるものです」(「教育研究論文受賞あいさつ」ブック・レットパート1)
 沖縄には多くの碑(戦争碑を含む)が建ちます。啄木碑もその一つ、沖縄の文化学習に使えないかとメモを取り出す。

文化編第一校時の「もの」は椰子の実と万国津梁の鐘と伊良湖岬港のサバの写真、島崎藤村の椰子の実詠い柳田國男「海上の道」、太田知事の記者会見の屏風に何が書かれているか。
  
  万国津梁の鐘

   琉球国は南海の勝地にして」
   三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車(ほしゃ)となし、
   日域を以て唇歯(しんし)となして、
   此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)島なり
   舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁(しんりょう)となし、
琉球王国の成立と琉球の大交易時代に入り、文化および食文化を「もの」で組み立てて
ゆきます。

 2校時「炭水化物と豆の食べ方文化ー箸・味噌汁」
 3校時「海上の道、あわもり、オモロ、琉歌、沖縄チャンプルー文化」
 4校時「伊波普猶をなぜ学ぶか「ニガ世からアマ世を目指す今に」
 5校時「伊波普猶「沖縄女流歌人恩納ナベ」と山城正忠と友啄木」
 6校時「異文化への尊厳(柳宗悦中心)、西洋崇拝、アジア差別、朝鮮から」
 7校時「人間への尊厳(ハンセン病とヒューマニズム)」
   (地域総合学習愛楽園から組み立てる)

 沖縄県高教組には副読本『沖縄の文学1古代近世編』『沖縄の文学2近代・現代編』があ
り、山城正忠と石川啄木の「交流」があったと書いている。沖縄の教師を那覇から伊江島
案内した時、沖縄自動車道、いつも見る風景なので、恩納ナベと与謝野晶子、山城正忠と
鉄幹・晶子などの歌などともに啄木までしゃべってみた。まず、国語の先生が驚いた。
 今日で「沖縄から啄木を見る」を終わる。
山城正忠追悼文『噫!啄木君』によれば、「君は常に『歌は我らのかなしき玩具』と言って
いた。私はこのなさけない言葉を思い出すたびにあの死神に見たれたような青い顔色を思
い出さずにいられない」(沖縄毎日明治45年4月30日)と、那覇に帰っても気になっていたようだ。当然、正忠は『一握の砂」後の啄木の歌を文芸誌で読んでいたと思う。
な無題
(山城正忠『明星41年11月号終刊号)

 私の今と
 『悲しき玩具』

 退職の挨拶「生き長らえることではなく、太く生きること」とあいさつし、辺野古の闘
いに没頭、脳梗塞で倒れ、まさか、癌まで住み着いているとは思わなかった。『悲しき玩具』
の歌は、今の自分と重なり開く事躊躇う。
 『悲しき玩具』最初の歌である。
    呼吸すれば、
    胸の中になる音あり。
    木枯らしよりもさびしその音。
 11月初旬に手術し体が食べ物を拒否した3ヶ月、バナナとイモ、トウモロコシのスープ
で体を維持していた。妻は、様々なメニュー試みた。妻の顔見るのがつらかった。
 今は、なんでも食べ、自分で食事作るの楽しみだが、胃袋や腸でゴロゴロ、粛々と音が
高鳴り、オナラが連続的爆発するときあり、「さびしその音」が重なる。医者は順調に胃や
腸が活動している・・・・・・・が。
 
    真夜中にふと目がさめて
    わけもなく泣きたくなりて
    蒲団をかぶれる
 抗がん剤点滴は一般的に副作用があるという。僕の場合は倦怠感と睡魔に襲われ、昼と
夜が逆転してしまう。

    友も、妻も、かなしと思ふらしー
     病みても猶、
     革命のこと口に絶たねば。
 僕は「病みても猶」、辺野古が真に勝つには「安保を日米友好条約」への道を説く、そん
な僕に妻は、僕が見落とした記事の重要な内容,視点(最近記事への集中度落ちている)
を示唆してくれる事少なくない。友は「無理するな」と心配してくれるが、ヤーグマイは
体力と精神力、思考力を低下させる。

   新しき明日の来るを信ずという
   自分の言葉に
   嘘は泣けれどー

は無題
  (国吉真哲)

 『石川啄木集』(日本の近代文学大系23)の解説者今井泰子は、次のように書く。

『「新しき明日」は、現在のような苦しい生活や矛盾だらけな人間の状態がなくなっている
社会。「なれどー」で、「明日」が現実とあまりに遠く、そうした願望いだくこと自体にむ
なしさを覚えてなえしぼんでゆく心の動きを示す。』

かも、知れない。しかし、また、読む側には新鮮で、活力を与えてくれる。啄木は「奇跡
の年」(明治43年)、国家論など展開したことはすでに書いている。また、琉球の文学青年
及び主義者たちの心をとらえたのは啄木であった。
 明治は啄木の死とともに終わる。啄木日記「千九百十二年」の死の3月前、明治45年の
正月日記の労働者のストライキに、新しく来るであろう力を労働者に見ている。
  1月2日日記
「明治45年がストライキ(東京市電)の中に来た。・・保守主義の好かない事のどんどん
日本に起こって来る前兆のようで、私の頭は久しぶりに一しきり急がしかった」(明治45
年1月2日日記)
 1月3日日記
「国民が、団結すれば勝つという事、多数は力なりということ知って来るは、オオルド・
ニッポンの眼からは無論危険極まる事と見えるに違いない」(1月3日日記)

 啄木を沖縄から見る、を、啄木命日で終わる。
  結びに
 僕の命も定めから、逃れること神も許さない。僕は「脱安保・脱原発」に「国民が団結
すれば勝つ、多数は力なり」と「新しき明日」を、辺野古の歴史蓄積から、また、現在の
安保呪縛の「オオルド・ニッポン」に異議を唱え、特に、日本の運動の統一、沖縄の生き方
『5本の思想』を求めている。この国の形は翼賛的潮流が闊歩し始めた。
 特に、北朝鮮の人工衛星(ミサイル)の戦争玩具で恐怖と危機を煽る中で冷静さを失い
始めてる。いま、東アジアは「敵国」作るのではなく「友好国」の共同世界を創ることだ。

ひ無題
 (石川啄木『明星』最終号?)
追記赤旗潮流(13)陸前高田の啄木碑
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-13/2012041301_06_0.html

QAB動画

発射予告あすから 県内物々しい雰囲気に
http://www.qab.co.jp/news/2012041134908.html
 QAB
検証動かぬ基地vol.107 オスプレイ配備 マスタープランの裏側
http://www.qab.co.jp/news/2012041134919.html
拡散して、学習に役立ててください。

QAB動画
4人死傷 オスプレイモロッコで墜落
http://www.qab.co.jp/news/2012041234941.html

12日第2信ー普天間返還合意16年の日にーオスプレイ墜落ニュース



新報
オスプレイ墜落、4人死傷 モロッコで米海兵隊
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189868-storytopic-1.html
タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32388/
 普天間返還合意の今日
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http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32385/

社説 ―琉球新報
普天間合意16年 県内移設を断ち切る時だ

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32385/

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189854-storytopic-11.html
 タイムス社説
[普天間爆音]教育が脅かされている

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189808-storytopic-1.html

芭蕉布の里ー喜如嘉


田園を散歩
  芭蕉布の里ー喜如嘉(2)


青春の頃の喜如嘉

 50年前、私は高校生であった。辺土名高校、家から約6キロ、毎日自転車通学で喜如嘉を通る。まだ、奥~高江間の道路はできてないから、学寮か下宿,間借の生徒が多かった。
 高校時代に学校の帰りによく喜如嘉で遊んだ。大学受験を目指すものは寮を出て間借に変えるもの少なくなかった。自分の勉強はかどらないと家の甕から豚肉(シーチカー塩漬け)を持ち出し、自転車に乗って、喜如嘉などに行って、アタイバル(裏畑)から、キャベツやホウレンソウ盗んで(翌日、許可)すき焼きで夜を徹して遊んだ。まだ、電機は24時間ではなくランプの時代であった。
 
当時は、海も豊かで喜如嘉イタビシ(ビーチ・ロック)でクロダイを2・3匹釣って、間借の学友と食べ、イノシシ捕ると鉄砲を作って遊んだものだ。完成する前に暴発してT君の左小指を撃った。今なら、日本中のメデイアにさらされていたであろう。海の見える神社があって放浪の文学者池宮城積宝の歌碑を啄木の歌とともに歌ったものである。なお、高校時代村のおばさんたちから「インターナショナル」「聞け万国の労働者」「沖縄を返せ」を聞いた。
 村の神社に登った。祭温松の並木が階段(約100段?)、神社も松が影で包んでいた。

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(手前の小高い森、放送用のスピ^カーや祠が小さく見える)
 喜如嘉の神社
池宮城積宝の歌碑があり、啄木の歌、藤村の詩など詠った。
高校時代村のおばさんたちから「インターナショナル」「聞け万国の労働者」「沖縄を返せ」を聞いた。昭和6年の村政革新同盟で歌っていたのである。

ああ喜如嘉
かの山村に生まれなば
少しこの世が楽しくありけむ
  (池宮城積宝歌碑を啄木調に)
かにかくに渋民村は恋しかり
思い出の山
思い出の川
  (石川啄木『一握の砂』)

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(積宝の歌碑、私の高校時代は粗末なコンクリートと記憶、東シナ海望む)

 チジュハ(喜如嘉)
  ハイカラ民族

私は喜如嘉をハイカラ民族と言っている。社会主義的実践の歴史を持つが、また、翼賛会を沖縄で最初に結成したのも喜如嘉、戦後の沖縄社会大衆党の牙城で復帰運動の少なくない指導者輩出、沖縄で最初に火葬場を建設したのも喜如嘉だ。なんでも新しがり屋だが、芭蕉布織りは喜如嘉にのみ残る。
平良敏子女史の家は、私が高校生の頃は高校生の下宿先であった。弟の故真六氏は先輩で恩師兼友人、奥さんの啓子さんは対馬丸の語り部として活躍している。
1978年、私は母校辺土名高校に赴任し9年務める。平良家の子どもたちはすべて私の教え子に当たり、気軽に訪問している。啓子さんの作る料理はうまい、特にうまいのがボロボロジューシー。
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  (丘の黄色い家平良家、今でも沖縄の名士訪問少なくない)

  山之口獏の碑
   放浪の文学者で謎の積宝

 芭蕉会館の入り口に山之口獏の詩歌碑が建っていた。「沖縄から啄木を見る(8)に、獏と積宝メモしたばかりであった。

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 放浪の文学者積宝と
  「さまよえる琉球人」


 東京で開かれた第2回メーデー(1921大正10年)、沖縄の文学青年、社会主義、アナーキストたちが文学的野心にもかられてバートランド・ラッセル来日(7月)、東海道を歩いて参加したものもいる。大正期の新青年たちは、無謀な情熱があった。厳しい弾圧であったようで東京に来ていた青年たちは帰郷か大阪に向かいます。池宮城積宝(早稲田卒)は東北渋民村に向かう。彼が啄木歌碑に立ち寄ったかは定かでないが全国を放浪したようだ。彼の事だから早稲田の同級生を頼りにしたのであろう。売れない新刊書を売り歩いたであろう。この癖が後に問題となる、東京に戻り小説「奥間巡査」が雑誌『解放』(10月号)に入選する。
 よく年9月1日の関東大震災は、琉球人も朝鮮人同様悲惨な目にあって、大阪に逃れ、大阪は沖縄の社会主義運動などの還流地になる。
   山之口莫『野宿』、比嘉春潮「全集」などに詳しい。
 積宝は広津和朗「さまよえる琉球人」(大正15年『中央公論』のモデルのひとりでもあり、広津の小説は琉球の青年たちから批判を受け、絶筆となり「まぼろしの小説」と言われ、戦後、歴史資料として、『新沖縄文学』(1970年17号)に遺族の許可を得て掲載されたのも国吉の努力と言われている。積宝は英語において、極東裁判で通訳した石川正通より上であったとの話を聞きますが、なぞの多い人であったようだ。
 喜如嘉は、沖縄の実業界、政治家、医師、教育者を多く輩出している。大工と言えばイジミ(大宜見)デーク(大工)、つまり,匠の域にあるという意味である。
 喜如嘉や根路銘などの戦前の家を見て歩くのもいいものだ。
 沖縄近代医学の先駆者平良真順氏の生家
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 (フクギに囲われた赤瓦、戦後のセメント瓦、現代的家が混在する)
 大正期にハイカラな村役場の沖縄最初か?
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 ハイカラだが、神秘的な妖精の住む村
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11日第2信ー普天間FA18飛来

社会

新報
騒音で入学式中断 FA18、普天間に12機飛来
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189808-storytopic-1.html
タイムス
FA18飛来 普天間、騒音激化
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-11_32329/
タイムス
href="http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-11_32321/" target="_blank">http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-11_32321/
 新報
兵庫の高校、「衛星」で沖縄への修学旅行変更
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189837-storytopic-1.html

芭蕉布の里ー喜如嘉(1)



田園を散歩
  芭蕉布の里ー喜如嘉(1)
  オクラレルカの花見

 啄木「悲しき玩具」を書こうと思うが、啄木の病と自分の病が重なりあって、憂鬱になる。
カミさんが新聞に紹介された大宜見村喜如嘉の田園に咲く0000の花見てみたいという。私の看病や食事作りで外に出機会が少なくなり、見に行くことにした。
 喜如嘉は芭蕉布の里でもあり、独特の風情を醸し出す村である。啄木を沖縄から見る(8)で、沖縄最大の農民運動(村政革新同盟))で上里春生(琉球短歌連盟副会長)に少し触れている。昭和6・7年農民たちが「自治共和国」みたいな運動が有って興味が尽きない村だが、弾圧された出獄者(昭和9年)が、最初に訪ねたのが国吉真哲である。
  (山城善光『山原の火』(上・下)沖縄タイムス)

 大宜味村「道の駅」
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 ぶながやの村
 ぶながやとはキジムンー(妖精)のことである
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 オクラレルカの田園
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 花咲き乱れると出荷出来ないのではないか。と、聞いてみた。
 オクラレルカは、生け花用に葉を出荷するとのこと、観光で来たみなさんへ蕾になったのを商品化している。
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 カミさんと二人で
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カミさん「宝の海に写真初登場DSC01853.jpg

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保育園の子どもたちもDSC01881.jpg
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明日は喜如嘉物語ー池宮城積宝と山之口獏の碑
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夏川りみ「芭蕉布でおやすみなさい。
http://www.youtube.com/watch?v=6kImjKvDIko

日米安保破棄ー17年前に沖縄の女性たち(1995年9月)


今日は小中高学校
 新年度始業式

 通院で家を出た。稲嶺名護市長交通安全のオジサンで頑張っていた。

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 帰りに辺野古テント村寄る。71歳で泳げないのに海上の闘いでカヌー共に行動した平良悦美さんに会う。月から金、毎日辺野古テント村に座る愚直な人だ。もう、80歳になるか。
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異常な大阪
 
 大阪市の橋下市長新規採用発令式で
  「公務員は国民に命令する立場」と訓示したようだ。一地方公務員(市長)および公務員が国に「命令」する権利など憲法上どこにもない。
 ましてや、教育は命令でするものではない。大阪がいま、おかしい。だけではなくて、日本全体の潮流が狂い始めている。
 
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

沖縄で起こっている異常
 北朝鮮の人工衛星(ミサイル)の打ち上げに、あたかも攻撃ミサイル迎撃並みに、陸海空自衛隊動員して民間地に配備、宮古・八重山に居座るつもりか。
 橋下大阪市長も「危機」を煽り、独裁的に物事に対応、沖縄へのPAC3配備と共通する手法が国政の問題でも横行している。
 朝日テレビはクイズ番組の大阪維新の会、出演させている。異常でお笑いの域脱している。タレント化して国政に送るつもりであろう。何度も何度もアップするが、解けない。マスメデイアの劣化で他局に波及したら。

この国の現状と明日が危うい。小選挙以来政治の劣化創て来たのはメデイア。
 こんな憂い込めて辺野古の浜を散歩している。

 土曜日、兵庫の新婦人のみなさんが大勢で来た。
 安次富さんがあいさつした。
 そして、私が説明した。(4月7日日記から)
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辺野古から
 日米安保を問う 

 
 辺野古16年の闘いの歴史と沖縄の心、アセスと今後の問題につて概括を述べた。
 沖縄の民衆が今日求めているもの、それは、安保条約を「日米平和友好条約への道」であること、世論調査では日米友好条約55%、安保廃棄14%、多国的条約10%、合わせて79%が、安保に異議を唱えていることである。
 この16年、SACO移設計画、軍民共用空港、日米合意(再編成)を破棄させ、今、新日米合意を迷走させている。
 オオール沖縄が県内移設反対の中で、壁は日米同盟深化いわゆる日米安保体制である。オオール日本がどこでも、いつでも、安保に挑むことであろう。
 私は、憲法9条の運動でも安保と結びついた運動が望まれる。現にASEANは「東南アジア友好条約」で結び
  紛争の平和的解決
  武力の威嚇、武力行使の否定
で、憲法9条を内政、外交に生かしている。憲法9条持つ日本が東アジアの平和的協同を積極的担う必要があろう。日米政府は安保50年、日本国民の目が安保に向く事恐れて地位協定の改定に動き出している。ジャーナリズムも法曹界も勇気をもって安保を論じ、日本の平和運動も同じだ。
 その時、私たちが築き上げた辺野古ノーも飛躍的に勝利する。
そんな話をした。
 心の中で、少女暴行事件の頃の沖縄の女性の行動と本土メデイアとジャーナリズムの姿を回想した。

1995年の9月29日日記
 10・21向かう頃

 私の95年9月日記は、少女暴行事件報道(9月8日)から、女性団体の行動をメモされている。
 『これらの行動で、保守的婦連が「米軍は鬼畜になるな!」を全面に「安保・地位協定破棄」をかかげた。…婦団協の集会の県内2紙の報道は「人間の尊厳を踏みにじり」「軍隊は市民を守らない」「すべての軍事基地撤去」「日米地位協定見直し」の声を紹介し、「軍事基地撤去。日米安保条約の全面破棄」の決議伝える』

本土メデイアの報道は少女の家にカメラを設置
 『・・・取材、報道姿勢もワイドショー的であった。沖縄の女性たちは、キー局16社にたいし「心ない報道は米兵と同じ」『普遍化して報道を」と抗議し、9月28日沖縄タイムスは「同じマスコミとして墳り、被害者宅をうろつくハエナ取材陣、恥を知れ」と書く。
  (ブックレット2『沖縄を教えて沖縄を語り歩いて』より)

啄木を沖縄から見る(9)は「悲しき玩具」となるのだが、自分の病状と重なって書けない。時間ください、
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 辺野古から帰って新聞見る
 PAC3沖縄配備やはり、役にたたず、異常配備だ。


沖縄タイムス
PAC3配備「意味ない」元官房副長官補
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-09_32253/
なお、沖縄タイムス文化欄「日米同盟再考10」に孫崎亨氏が「ミサイル防衛非現実的ー読めぬ軌道無意味な玩具」書いている。
 「ミサイル防衛は単なる戦争ごっこの玩具である。それもまったく性能が悪くて、ほとんど意味をなさない玩具である」

琉球新報
社説
嘉手納暫定移設案 固定化へ手を貸すのか
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189724-storytopic-11.html

辺野古散歩と沖縄啄木享有メモ


 辺野古散歩
土曜日、天気がいいので辺野古に散歩に行く、大干潮で辺野古漁港から平島・長島に潮干狩りに行く船が次々に出て行く、日光浴楽しむ。昼ごろに大勢のツアーあった。(明日報告)

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啄木を沖縄から見る(8
  まぼろしの啄木歌碑2号
1922年(大正11年)渋民村に啄木歌碑第1号が建った。山城正忠は5円送った。
   やわらかに柳あおめる北上の
   岸辺に見ゆ
   泣けどとごとくに
 1923年、山城正忠と弟子の国吉真哲は全国第2番目の啄木歌碑建立を目指すが資金調達できずに、55年後の歳月を経て1977年、真教寺に沖縄啄木研究会が啄木歌碑を建て、正忠は1949年に没しているが、山城正忠の名が刻まれる。
 正忠の歌碑は釈超空(折口信夫)の歌碑とともに波の上神宮の境内に建つ。
   朱の瓦屋根のかげ(漢字出せず)遊春の日
   ものみなよろしわが住める那覇

 普通、歌碑の歌は境内を向きますが、正忠の歌は外を向き、そこはチージ(辻遊郭)ではるか向こうに啄木の歌碑と向かい合っている。大正13年(1924)正忠を会長に琉球歌人連盟が設立され大正期の新青年たちが結集され、思想的にもアナーキストや社会主義の思想など活発で山之口獏もいる。啄木・萩原朔太郎らの影響を受け、昭和の社会主義運動に大きな影響を与える三木露風の弟子上里春生らもいた。獏の詩によって、沖縄の文学は日本社会で認められてゆく。

「僕たちは毎日のように真哲の家に集まり、啄木調の短歌を朗読したり、酒を飲んだり、時に辻の色町に足を運んだり、そんなことばかりして暮らしたのである」(山之口莫『僕の半記』)

   お国は?と女は言った
   さて、僕の国はどこなんだか。とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、
   刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしている僕の国か!
   ずっとむかふ
    (以下略)
  (『山之口獏全集第1巻』思潮社刊より)

  正忠『紙銭を焼く』を出版
    鉄幹の死に捧げる

 昭和13年(1938年)、正忠は息子の死、師鉄幹の死に捧げる歌集『紙銭を焼く』を出版します。序歌は与謝野晶子、跋は伊波普猶である。昭和の労働運動の隆盛、弾圧、軍国主義の台頭をよもとることができる。
 昭和3年(1928)、普通選挙に沖縄でも労農党の候補立て闘われる。供託金を集めるために正忠(沖縄三蹟と墨絵にも優れていた)と国吉は、啄木の歌を短冊や色紙に書いて奮戦、また、関西の女工たちもカンパを送った。
   飢えながらなほ働けど風荒れているその報いなし農民の汗
   子らのため煮たる蘇鉄の實の毒に中り貧しき親死にて行く
   己が身を減らしたまえと病める児を抱き手祈りぬ余り軽きに
   共産主義のひろめに支那服を着て我を訪ふ似非法師かな
   車より「歯を守れ」とてビラ撒く歌人われも今日は町医者
  
 昭和に入ると農民、労働運動が活発になり、
  沖縄教職員組合(OIL昭和6年)
  大宜見村村政革新同盟(昭和6・7年)
 などだが、弾圧は凄まじかった。OIL関係者は拘置所で発狂、眞栄田之僕の脳天には10センチほどの傷がつけられ半死の状況で引き取られ死ぬ。眞栄田の姉が伊波冬子(伊波普猶の妻、折口信夫に師事)である。
   若くして草かげ人なりはてて汝がため今は湧もいでず
   おごそかに世のみ判きの前にたつかなしき宿世あひ守りつ
   (『白菊の花ー伊波冬子遺稿集』)
 日本は昭和13年(1938)日中戦争に開始、軍国主義が沖縄社会にじゅうまんする。このとき、ピカソの芸術にも影響を与えた「世界のフジタ」藤田嗣冶が沖縄の新進画家南風原朝光を伴ってお忍びでやってくる。

な無題
(『紙銭を焼く』藤田嗣冶の描く山城正忠)

世界の藤田継冶と正忠
   正忠肖像画」(1)

 国吉真哲は正忠の弟子で「文壇の整理役」と言われ、南風原朝光は友人で、藤田来沖の記事を琉球新報、月間琉球に残している。おそらく、正忠は『紙銭を焼く』の肖像画、国吉を介在して書いてもらったのであろう。
 日本における藤田は戦争画の藤田と芸術家の戦争責任を問われる。この時期、正忠の歌も戦争を賛美するよう微妙に変化してゆくのであった。
 そして、天皇制国体の捨石にされた沖縄戦の惨事へと。
   子を既にソ満の境にたたせたる従妹痩せたり嘆かざれども
   たたかひのさまを語り手て友撫づるひげよりのぞく痩せし頬の骨
 おそらく、満州事変の頃を謡うのであろう。
   戦えど王羲之の書にしたためばあわれなり支那の民
   あわれなり南京城にのこれるは将の寝台宋のよく浴房
 南京陥落、書道家正忠の心境が読める。翼賛会と軍国主義の中で・・・・・
   南京の陥たるを祝ぐさかずきに児のまぼろしもほほえみ浮
   風よ凪げ波よしづまれすめらぎの御楯の兵ら船出づる日は.
  (『紙銭を焼く』より)

  『那覇の女』(2)
 啄木享有の歴史を追っていると、啄木歌碑建立の中心になった国吉真哲にたどり着く。正忠肖像画から藤田を追ってみたら平野美術館の『那覇の女』を見たくなり、『紙銭を焼く』をもって訪ねた。驚いていた。私はすでにモデルを特定していた。ところが、2年ほど前に、平野美術館の学芸員から場所もモデルも違うので日経新聞に書くので、私の説を使わしてほしいとのことであった。絵も書くのでもないし、歴史の専門家でもないので別に損得なし。場所とモデルは糸満の遊郭とのこと、しかし、肖像画の右上に「那覇にて」となっている。その際に額縁に入った『那覇の女』が送られ、手紙も添えてあった。コピー画でも再版不能で手に入らないであろう。
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7日第2信ー銃携帯、普天間補修、民主党と下地幹郎



社説
琉球新報
民間地銃携行 一体、何を守るのか
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189668-storytopic-11.html

沖縄タイムス社説
[普天間大規模補修]筋の通らない固定化だ

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-07_32159/

民主議員、普天間の嘉手納一時移設提言
 琉球新報
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-07_32163/
 何度繰り返せばわかるのだ。おそらく、国民新党分裂で下地幹郎議員へメッセージも含む、下地は嘉手納統合案などで彼の会社大米組は高江・辺野古含め基地に寄生していて国場組と競い、次衆議院選挙骨肉の争いになる。

啄木「われを愛する歌」と名護「白い煙・黒い煙」



啄木を沖縄から見る(7)啄木没100年の日を前に
 『一握の砂』-「我を愛する歌」より
少年の頃の啄木
小学校高学年になると俳句や短歌を学ぶ。啄木についてはだいたい次のような歌であったように記憶している。
    ふるさとの山に向かい
   言うことなし
   ふるさとの山はありがたきかな

たわむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩歩まず
私が通った中学、国頭中学は海に面して白い砂浜が赤丸崎(現米軍保養地)まで広く伸び、暴風林のアダン、ヤラブ、モクモウ、海岸に伸びるグンバイヒルガオの草原、白い海岸、原色の青い海と空、北に辺戸岬が空を割り、伊平屋・伊是名の小島は水辺線に浮かんでいた。
   東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
   蟹とたわむる
国語の本で学ぶ啄木の歌は、学校を包む風景そのものであった。果てしなく白い海岸は夏にウミガメが産卵し、引き潮の濡れた砂の緑にツノメガニの巣穴群れる。夏の太陽で乾ききった白い砂を巣穴に入れると、
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあいだより落つ
 白い砂を掘っていくと、突然、ツノメガニが走りだし、それを追う。
『一握の砂』の「我を愛する歌」のイメージは、私たちに実感として伝わる。

沖縄の高校国語教育、弁論指導で多くの実績を残し、現在も新聞の短歌選者で活躍している平山良明氏の実践によれば、沖縄の高校生に最も親しまれている歌人は啄木である。
大正・昭和期、疲弊したふるさと棄て、若者たちが吐き出されるように、移民や本土の紡績などに流出する。
   田も畑も売りて酒のみ
   ほろびゆくふるさと人に
   心寄する日
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(名護市 名護城に建つ 「白い煙・黒い煙」の碑)

東北も沖縄も似た状況にあった。女工たちに啄木の歌は愛されたと聞く、
ふるさとの訛りなつかし
   停車場の人ごみに中に
   そを聴きにゆく
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 明治・大正・昭和期は「朝鮮人・琉球人お断り」の状況下にあった。
   はたらけど
   はたらけど猶わが生活楽にならざり
   ぢっと手をみる

   こころよく
   われにはたらく仕事あれ
   それを仕遂げて死なんと思ふ
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 沖縄戦で沖縄は切り捨てられ、米軍の支配下でパスポートがなければ本土に行けず故郷沖縄の土が踏めなかった。戦後55年代から60年代に集団就職のブームは沖縄も例外でない。啄木の故里の歌は、自分の生活そのものであった。沖縄は「異邦人」であった。大学生は「留学生」であった。戦前から本土に残った著名人など、労働者、留学生たちは、沖縄返還運動を担って行きます。特に、帰省する留学生にとって、ふるさととの土を踏む心は複雑に揺れた。CICなどのスパイの目が網の目のようにあった。 
ふるさとの土をわが踏めば
何がしに足軽くなり
心重れり
 大学に帰れない恐怖があった。啄木の生活する歌は、沖縄の歴史体験に刻まれる。「新しき明日」の碑は、沖縄のそれぞれの時代の青年が生きてきた足跡があり、また、明日を描く人々の指針となるであろう。
(次回ーまぼろしの啄木歌碑2号)
ウリズンの森と里に
  栴檀の花かおる
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6日第2信ー国民に銃を向けーアメリカはユスリの国

大きい文字
国民に銃向けるのかこの異常の始まり

 病院から帰って新聞開いた。北朝鮮海兵隊が沖縄上陸するというのか
 明らかに、沖縄県民に向ける銃だ
 これが自衛隊の本性である。
PAC3警備に銃携行 石垣の陸自が国内初
沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-06_32114/

PAC3警備に銃携行 石垣島の陸自部隊
琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189654-storytopic-1.html

 アメリカは「ネダリ・強請」の国ー恥も外聞もな国
 「傭兵」には惜しみなく金を出せ?
米、普天間補修8年分200億円要求
 沖縄タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-06_32115/
プロフィール

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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