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12日第2信ー普天間返還合意16年の日にーオスプレイ墜落ニュース



新報
オスプレイ墜落、4人死傷 モロッコで米海兵隊
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189868-storytopic-1.html
タイムス
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32388/
 普天間返還合意の今日
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http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32385/

社説 ―琉球新報
普天間合意16年 県内移設を断ち切る時だ

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-04-12_32385/

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189854-storytopic-11.html
 タイムス社説
[普天間爆音]教育が脅かされている

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-189808-storytopic-1.html
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芭蕉布の里ー喜如嘉


田園を散歩
  芭蕉布の里ー喜如嘉(2)


青春の頃の喜如嘉

 50年前、私は高校生であった。辺土名高校、家から約6キロ、毎日自転車通学で喜如嘉を通る。まだ、奥~高江間の道路はできてないから、学寮か下宿,間借の生徒が多かった。
 高校時代に学校の帰りによく喜如嘉で遊んだ。大学受験を目指すものは寮を出て間借に変えるもの少なくなかった。自分の勉強はかどらないと家の甕から豚肉(シーチカー塩漬け)を持ち出し、自転車に乗って、喜如嘉などに行って、アタイバル(裏畑)から、キャベツやホウレンソウ盗んで(翌日、許可)すき焼きで夜を徹して遊んだ。まだ、電機は24時間ではなくランプの時代であった。
 
当時は、海も豊かで喜如嘉イタビシ(ビーチ・ロック)でクロダイを2・3匹釣って、間借の学友と食べ、イノシシ捕ると鉄砲を作って遊んだものだ。完成する前に暴発してT君の左小指を撃った。今なら、日本中のメデイアにさらされていたであろう。海の見える神社があって放浪の文学者池宮城積宝の歌碑を啄木の歌とともに歌ったものである。なお、高校時代村のおばさんたちから「インターナショナル」「聞け万国の労働者」「沖縄を返せ」を聞いた。
 村の神社に登った。祭温松の並木が階段(約100段?)、神社も松が影で包んでいた。

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(手前の小高い森、放送用のスピ^カーや祠が小さく見える)
 喜如嘉の神社
池宮城積宝の歌碑があり、啄木の歌、藤村の詩など詠った。
高校時代村のおばさんたちから「インターナショナル」「聞け万国の労働者」「沖縄を返せ」を聞いた。昭和6年の村政革新同盟で歌っていたのである。

ああ喜如嘉
かの山村に生まれなば
少しこの世が楽しくありけむ
  (池宮城積宝歌碑を啄木調に)
かにかくに渋民村は恋しかり
思い出の山
思い出の川
  (石川啄木『一握の砂』)

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(積宝の歌碑、私の高校時代は粗末なコンクリートと記憶、東シナ海望む)

 チジュハ(喜如嘉)
  ハイカラ民族

私は喜如嘉をハイカラ民族と言っている。社会主義的実践の歴史を持つが、また、翼賛会を沖縄で最初に結成したのも喜如嘉、戦後の沖縄社会大衆党の牙城で復帰運動の少なくない指導者輩出、沖縄で最初に火葬場を建設したのも喜如嘉だ。なんでも新しがり屋だが、芭蕉布織りは喜如嘉にのみ残る。
平良敏子女史の家は、私が高校生の頃は高校生の下宿先であった。弟の故真六氏は先輩で恩師兼友人、奥さんの啓子さんは対馬丸の語り部として活躍している。
1978年、私は母校辺土名高校に赴任し9年務める。平良家の子どもたちはすべて私の教え子に当たり、気軽に訪問している。啓子さんの作る料理はうまい、特にうまいのがボロボロジューシー。
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  (丘の黄色い家平良家、今でも沖縄の名士訪問少なくない)

  山之口獏の碑
   放浪の文学者で謎の積宝

 芭蕉会館の入り口に山之口獏の詩歌碑が建っていた。「沖縄から啄木を見る(8)に、獏と積宝メモしたばかりであった。

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 放浪の文学者積宝と
  「さまよえる琉球人」


 東京で開かれた第2回メーデー(1921大正10年)、沖縄の文学青年、社会主義、アナーキストたちが文学的野心にもかられてバートランド・ラッセル来日(7月)、東海道を歩いて参加したものもいる。大正期の新青年たちは、無謀な情熱があった。厳しい弾圧であったようで東京に来ていた青年たちは帰郷か大阪に向かいます。池宮城積宝(早稲田卒)は東北渋民村に向かう。彼が啄木歌碑に立ち寄ったかは定かでないが全国を放浪したようだ。彼の事だから早稲田の同級生を頼りにしたのであろう。売れない新刊書を売り歩いたであろう。この癖が後に問題となる、東京に戻り小説「奥間巡査」が雑誌『解放』(10月号)に入選する。
 よく年9月1日の関東大震災は、琉球人も朝鮮人同様悲惨な目にあって、大阪に逃れ、大阪は沖縄の社会主義運動などの還流地になる。
   山之口莫『野宿』、比嘉春潮「全集」などに詳しい。
 積宝は広津和朗「さまよえる琉球人」(大正15年『中央公論』のモデルのひとりでもあり、広津の小説は琉球の青年たちから批判を受け、絶筆となり「まぼろしの小説」と言われ、戦後、歴史資料として、『新沖縄文学』(1970年17号)に遺族の許可を得て掲載されたのも国吉の努力と言われている。積宝は英語において、極東裁判で通訳した石川正通より上であったとの話を聞きますが、なぞの多い人であったようだ。
 喜如嘉は、沖縄の実業界、政治家、医師、教育者を多く輩出している。大工と言えばイジミ(大宜見)デーク(大工)、つまり,匠の域にあるという意味である。
 喜如嘉や根路銘などの戦前の家を見て歩くのもいいものだ。
 沖縄近代医学の先駆者平良真順氏の生家
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 (フクギに囲われた赤瓦、戦後のセメント瓦、現代的家が混在する)
 大正期にハイカラな村役場の沖縄最初か?
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 ハイカラだが、神秘的な妖精の住む村
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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