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私の復帰闘争小史(終)-沖縄と世論、わが友「国頭・与論人」の闘い



 最後の「4・28」
   原点ー過去・現在・未来

 1972年4月28日、最後の4・28の沖縄県高等学校教職員組合のデモ隊列です。横断幕には安保反対、完全復帰のスローガンが見えます。「核も基地もない平和の沖縄」を目指したが条件付き、密約返還となりました。
 現在、普天間全面返還・閉鎖に対して移設論にこだわり、知事も「不可能論」で県民の普天間返還を明確にせず、様々な疑念を生んでいます。
 基本的な原点は最後の「4・28」が示すように安保条約をなくする事、「完全返還」を求める明確さが沖縄にも求められます。


無題15
 (この間の写真、『復帰闘争史写真」集より)
 復帰闘争「語り部」として
  同志青山恵昭君の児童生徒への講演

沖縄タイムスに「27度線ー誓い再び」が連載されました。第1回青山恵昭氏は中学。高校ともに学び学生時代復帰闘争を共に闘った同志である。
 1983年、岩崎書店『子ども歴史風土記47都道府県』(歴史教育者協議会)が出版された。青山氏をモデルに「辺戸のかがり火」を。私が執筆しています。
 青山氏の児童生徒への「講演」で「私の復帰闘争小史」を締めます。
追記
 琉球新報「屈辱の記憶3」(27日)にも青山恵昭のインタビュー。


無題16
(沖縄タイムス1面25日青山恵昭)

児童生徒
 「4.28」レクチャー
                             
  主催/祖国復帰40周年記念事業 国頭村実行委員会

       
  日時/012年4月16日(月)午後5時~7時      
  開場/国頭村保健センター           
  受講者/小中学生30名+教師父母一般20名     講話 青 山 惠 昭
                               〔レジュメ〕
  
はじめに
  国頭村と鹿児島県の与論町が一緒になって「復帰40周年記念事業」が開催さ
 れることになりました。来たる4月28日には海上大会、かがり火交歓、復帰行
 進などがおこなわれます。
  私は20歳のころ、1964年から2~3年間、その行事に参加しました。半
 世紀も前の遠い過去のことですが当時の記憶を思い起こしながらお話しをさせて
 いただきたいと思います。
  沖縄の祖国復帰については、学校でも教わってきたと思いますが、今日はあら
 ためていっしょに勉強してゆきましょう。

1、自己紹介、父は与論島、母は国頭の人  
・私の名前は青山惠昭(あおやまけいしょう)といいます。生まれは与那国島の南西
 向こうにある台湾です。5歳の時、長崎と鹿児島を経て母の実家のある沖縄の国
 頭村に来ました。今は2人の孫がいる68歳のオジィになりました。
・今からちょうど50年前、18歳の時、こちらの辺土名高校を卒業し、それから
 ずうっと那覇と浦添で住んでいます。みなさんの辺土名小学校と国頭中学校は私
 の母校です。
・昨日、家族7名でシーミー(清明祭)でこちらに来ました。兼久の三男渡慶次と
 いうところの門中墓です。国頭中学校の渡慶次靖先生の家が本家で辺土名小学校
 の港川オリエ先生も親戚にあたります。
・青山という姓なのになぜ渡慶次のお墓に来たかいうと、祖父のトートーメー(位
 牌)は私の家の仏壇にあって、ちゃんとお墓参りをしないとご先祖様に怒られる
 し、また寂しがったらかわいそうだからです。トートーメーのことはややこしい
 ので、くわしくはみなさんのオジィやオバァに聞いて下さい。
・青山という姓は沖縄ではあまり聞かないですが、私の父は辺戸岬から見える鹿児
 島県の与論島の人です。与論のことを方言でユンヌといいます。だから私はいわ
 ゆる「クンジャンユンヌンチュ」(国頭・与論人)なのです。
・父は私が生後3ヶ月の時に戦争に連れてゆかれ、戦争から生還してきたのに、台
 湾228事件という大事件に遭遇し“失踪”されてしまいました。ですから父の
                   ① 
 ことは記憶がありません。だからよけいに与論のことが気になるかもしれません。
       ※掲示:父母の結婚した時の写真(台湾で)     

2、日本から切り離され分断された沖縄と奄美
・日本は1945年8月15日太平洋戦争で敗戦。沖縄は3月26日から地上戦と
 なり県民の4人に1人が犠牲になるという壊滅的な打撃を受け6月23日に組織
 的戦闘が終了しました。6月23日の「慰霊の日」がそれです。
・沖縄は同年6月23日の戦闘終結から、アメリカの占領地となって異民族支配下
 のたいへんな苦渋を強いられる戦後のスタートとなりました。
  ・今から60年前の1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条
 約第三条によって北緯29度線をもって沖縄と奄美は日本から切り離され、19
 45年の上陸占領からひきつづきアメリカの直接統治下に置かれました。琉球列
 島あるいは南西諸島といわれる地域です。
・小学校1年生の夏休み、48kmも離れた与論から、父のお兄さんにあたる叔父
 (当時45歳)さんがエンジン付きのサバニ(くり舟)で迎えに来てくれ、辺土名か
 ら与論島へ、オジィも一緒にサバニに乗って高い波間を木の葉のように揺れなが
 ら大海原を6時間くらいかけて行きました。途中、エンジントラブルで2時間も
 漂流したのに平気でいた叔父さんとオジィのふるまいが印象的です。
・与論島の親戚や子どもたちと2~3週間ほど楽しくすごして、帰りはまた叔父さ
 んのサバニに乗って帰ってきました。与論のみなさんからは豚とにわとりという
 すごいお土産をおみやげをもらいました。沖縄は激しい地上戦のために、牛、馬、
 山羊、豚、鶏などの家畜がほとんどいなくなっていたのでオジィも一緒に大喜び
 しました。うれしくなってうきうきしながら子豚やにわとりたちと大海を渡って
 来たものです。
・与論島は400年前から薩摩の支配下にあって今も鹿児島県です。しかし昔は与
 論を含む奄美諸島は琉球王国の仲間でした。ですので、人々の顔かたちや言葉、
 文化、暮らしぶりは沖縄とほとんどかわりません。
   
3、1953年奄美は母国復帰、沖縄は北緯27度線で分断・それから1年8ヵ月後の1953年12月25日、北緯27度線から北へ、与論
 論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島などが返還され日本へ復帰しました。
・それは奄美の人たちが血のにじむような復帰運動を島ぐるみで頑張ったから実現
 できたことで悲願達成の大きな喜びでした。
  ・しかしながらそれはまた、沖縄との7年余という束の間の一体感との別れとなり
 新たな悲しみの始まりでもありました。
・その日から辺戸岬と与論島の間の北緯27度線は“国境”になり、与論島など奄
 美諸島から北への日本列島は「外国」になったのでした。
 ・沖縄を支配していた「琉球列島米国民政府」は恣意的に日本ではなく琉球とよび


無題17
 (沖縄タイムス16面25日)


   「琉球政府」をつくるなど琉球という名のつくいろいろな機関をつくり、島中に
   軍事基地をつくっていきました。琉球立法院、琉球銀行、琉球大学、等々です。
・この日から、日本国の国民でありたかった沖縄の人々は国籍を奪われ4月28日
   のことを、くやしくてくやしくて「屈辱の日」とよぶようになりました。
・その日から私も“外国人”になりました。本籍は日本国鹿児島県与論村だったか
   らです。私たち“非琉球人”は米国民政府高等弁務官が発行する非琉球人・半永
   住許可の「在留許可証」というものを持たされました。
       ※掲示:在留許可証
・許可証を申請するために、母と一緒になぜか「警察」まで行って、小3の子ども
   がなぜか指紋まで押さされ、悪さをしたような怖くていやな印象が今も心のなか
   に重く残っています。
  ・その時私は小3になっていました。与論へは勝手に行けなくなり悲しい思いをし
   たものです。与論の親戚もとても悲しんでいました。
       ※掲示:小3のころの写真
・それから先、なかなか行けなかった与論へ行ったのは20年後の1971年です。
 日本政府発行の琉球列島米国民政府高等弁務官の「再入域許可」の身分証明書=
 パスポートを持って行きました。
     ※掲示:身分証明書
・しかし、もう沖縄から直接は与論へ行けません。まず奄美大島まで飛行機で行き
 名瀬で一泊、翌朝の船便で一路南下で与論へ向かい、古仁屋、徳之島、沖永良部
 島を経て3日目にやっと与論へたどりつくという長い道のりでした。かつてはサ
 バニでも半日ちょっとあれば行けたというのに、です。
・自由往来が禁じられ分断された北緯27度線という海峡、それからはしかたなく
 密かに生活物資などを運んで交易をする“ヤミ船”や隠れて行き来する“密航者”
 があらわれるようになり警察に捕まれるという光景にたまたま出会いました。私
 の家にも、手に縄をかけられて引っ張られてゆく大人たちを目のあたりにして子
 どもながら気の毒に思ったりしました。
  
4、「沖縄を返せ」日本復帰運動大きな流れに
   
・それからの沖縄は、米軍基地建設のための土地強制接収が全島で強行され、由美
 子ちゃん殺害事件(1955)、宮森小ジエット機墜落事件(1959)等々の米軍米兵によ
   る事件事故があいつぎました。
・伊佐浜の土地闘争をはじめ島ぐるみの激しい抵抗闘争が大きく広がり、米軍の事
   件事故にたいする怒りは人権と生命を守るたたかいへ発展してゆきました。
  ・日本人でもなくアメリカ人でもなく国籍を奪われ、人権や財産、生命さえも奪わ
   れるという米軍支配に状況のもとで、日本復帰運動は沖縄中を包みこむ大きな流
   れとなってゆきました。
・1963年、祖国復帰協議会によって復帰行進と海上大会、かがり火大会がはじ
                     ③ 
 めておこなわれました。復帰行進はひと月ぐらいかけて東西2コース、かがり火
 大会は27日夕夜、海上大会は28早朝から北緯27度線海上で開催、県民総決
 起大会は那覇市で数万人規模で開催されていました。
・当時の復帰運動の模様は「道の駅・ゆいゆい国頭」で写真展が開催されますので
 ぜひ見てください。(5月31日まで)
・大学に入学して、熱気あふれる先輩たちの行動に共感し学内の全学的な復帰運動
   に交わり復帰大行進にも参加しました。私が歩いたところでは学校や集落に近づ
   くと住民や生徒たちが沿道両側で待ちうけ、ブラスバンドの生徒たちが待ち受け
   て合流し「沖縄を返せ」の曲を演奏して先導し役場でも学校でも集会が集会が開
   催されることがありました。では、この歌をみんなで歌いましょう。
              沖 縄 を 返 せ   
       かたき土をやぶりて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ 
       我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ
       我らは叫ぶ沖縄は 我らのものだ沖縄は
       沖縄を返せ 沖縄を返せ   
・集落に来ると婦人会などがお茶やおにぎりを出してくれ、宿泊地は公民館などの
   公共施設などで地元の人たちと“復帰懇談会“の開催もやるというふうに、今で
   は考えられないようなことがありました。ほんとうに沖縄中が島ぐるみだったん
   だなとつくづく思いだします。

5、海上大会参加、与論の叔父と海上で握手
・やはり記憶が薄れたようです。具体的にはなかなか思い出せません。さいきん当
 時のメンバーと久しぶりに会って話しましたが、みんな私とあまりかわりません。
   しかし、このきっかけでだんだんよみがえってきたこともあります。
・東京オリンピックのあった1064年と翌65年、海上大会に参加、北緯27度
 線での海上大会には数十名の学生から数名しか乗船できないという厳しい制約の
 中から与論島“出身”ということもあって優先的に乗船を許されました。
・前夜の27日、夕闇に暮れる岬は1000名をゆうに超える人々が埋め尽くして
   ゆきます。復帰行進の最後の地点にたどりついた人々はまさにあの勇者の面立ち
   で“沖縄を返せ”の雄たけびを叫びながらやってきました。
・8時点火!。塔のようにそびえ立つ薪材が漆黒の闇に火柱を突き上げます。爽や
 かな南風が吹く岬の北に目をやるとはるか彼方の与論島からかすかな炎がみるみ
 るうちに大きなって迫ってきます。岬の岩間から、草の根っこから。大海原から、
 そして背後の辺戸御嶽の岩山からも“沖縄を返せ”の大合唱がかえってきました。
  ・朝6時、雨はなく曇天、風少し、奥集落へ行き海岸から5~6トンぐらいの漁船
   に10数名も乗って北の方向へ向かいます。みんな、ほとんど不眠の紅潮した顔
   であまり語らずなにか決心したかのようでした。
・1時間ぐらい経って北の向こうから船団が見えてきました。まもなく一体となり
                   ④
 大会が始まったようで、大海原で大音響の叫び声が響きわたりああ始まったんだ
 とわかり、耳を澄ますと凪っぽい海景に漂ってリーダーたちのそれぞれの決意と
 か宣言とかが力強く聞こえてきました。
  ・ひと通りのセレモニーが終わると大小の船が入り混じっての交歓がはじまり、私
   の乗ってる漁船も出逢う船ごとに握手や掛け声、物々交換などで最高潮に達して
   ゆきました。モノモノは、沖縄側は黒糖、サーターアンダギー、泡盛やサトウキ
   ビ、等々…。本土側はリンゴや梨などそれぞれ特産品でした。
・そのうち私が乗ってる船に本土側のサバニがやってきて、私の名前を告げる人が
 おり、即座に与論の叔父とわかりました。学生会とかいたノボリをさがしたとか
 いって…。叔父もチャーター操縦で本土からのメンバーを乗船させていたので一
 瞬の間でした。小一以来の13年ぶりの再会、握手を交わしこみ上げてくるもの
 がありました。10日ほど前に「船に乗るかもしれない、逢えたらいいね」と手
 紙を送ってありましのでほんとうにうれしかったです。
・やがて北緯27度線を南北へ別れて名残り惜しく南の方向へ向かって行くと「沖
 縄島」の姿が眼前に迫ってきました。本土から沖縄へ向かうときにはじめてみる
 洋上の沖縄の姿です。“沖縄を返せ”の意味があいがより深まって行きました。
      掲示:「ゆいゆい国頭」ロゴマーク
         与論島「母国復帰記念碑」写真
・今考えるてみると、大海原の“国境”におけるこのようなたたかいというのは世
 界史的にもきわめて稀で、抑えられてきた民衆のすばらしい創造的な知恵だった
 と思います。
・海上大会、かがり火、復帰行進の一連の行動はその後も数年間にわたって開催さ
 れ、やがて沖縄県民の総決起と日本国民の連帯したたたかいは巨大なエネルギー
 となって1972年にはとうとう日本復帰が実現できました。
・米軍基地など様々な問題を抱えながらも悲願の祖国復帰をかちとり日本国憲法の
 もとに帰ってきました。あれから40年たった今も理不尽で不条理なことが今も
 続いております。あの「4.28」で本土のみなさんとかたい握手で連帯してき
 たことを思いおこし、平和と民主主義、自由と平等のあらたな“かがり火”を高
 くかざしてゆきましょう。
 
おわりに

 このイベントは国頭村と与論町が未来に向かって平和を発信する上で大きな貢献
となるでしょう。とりわけ、辺戸岬は日本復帰運動の原点であり、先人達が命をと
して奮闘してきた記憶をとどめた歴史的な地です。
 これからもよりいっそう平和と友好の絆をつよめ、新たな未来に向かってみんな
で考え行動してゆきましょう。

 辺戸岬復帰闘争碑文結び
 現在・明日への「警鐘」
「 闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。」

東京の4・28
  伊波洋一講演会
 沖縄と結び安保・日本の進路

http://j-peace.org/2011/pdf/120428ihakikaku.pdf
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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