教師になったときー二つの道
意見書提出は26日です。
高江情報QABニュースで
日本平和委員会として46年
教師になったとき
二つのこと
1966年高校社会科教師になりました。定年退職は2004年3月「政府は私の定年退職に辺野古に手を付けたのが失敗dだ」と冗談しています。昨日の辺野古座り込み看板2836日刻んでいます。
私が教師になったころは、米軍支配下で復帰運動・ベトナム反戦運動の昂揚期作りあげていました。
1、日本の民間教育運動との連携を持ちたかった。米軍は民間教育運動家を渡航拒否していました。家永裁判の起こったのもこの時期でした。明治教育新書は優れた実践を発行していました。
宮古には歴史教育者協議会(歴教協)の支部があって教師はもちろん農民もいました。
赴任した宮古の優れた教師たちから学びました。
2、日本平和委員会に入りました。
日本平和委員会の活動はありませんでした。社会科教育で平和。沖縄の歴史など「沖縄自立論敵社会科教育」をめざし、野外教育実践はやがて沖縄修学旅行などと結びついてゆきます。
1998年、名護市民投票後、名護平和委員会の活動に入り、学校の実践と市民運動の結合に入ります。歴教協機関誌『歴史地理教育』には少なくない実践報告書いています。辺野古の闘いが多くの課題があるために、研究はままならないために「名」だけになっています。
平和新聞と沖縄の闘い
沖縄の闘いを全国へー最新号に見る 評価書の闘いを全国に
桜井国俊論文で評価書の闘いを

宜野湾市長選挙を
全国の闘いへ

沖縄の闘いをラテン・アメリカと連帯
「宝の海」(21日)は辺野古・高江の非暴力をラテンアメリカの紛争の平和的解決と平和の文化で触れてきました。平和委員会は国際的に沖縄の闘いの重要性を柱にして国際連帯強めています。
日本平和大会国際会議は10年辺野古の闘い報告して、韓国・カナダ・エクアドル、フランスなど行きました。


アメリカの国際戦略を
常に分析

「平和新聞」(月3回)
私の「宝の海」(コラム)を確保
月に1回、辺野古通信を書いています。高江は伊佐さん、沖縄基地の動きは大久保さんが書いています。私の「宝の海通信」は26回になりましたから、3年になります。平和委員会は個人加盟ですから、さまざまな提案を行いメーリングリストで、ほぼ毎日、高江緊急要請、アセスへの草の根の運動を発信しています。
高江情報
今日も続きます
踏ん張っています。
http://www.qab.co.jp/news/2012012433359.html






