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1980年代後半に闘いに学ぶー3つの闘いと辺野古・高江



日米政府の新合意の戦略・戦術が少しづつ見えてきた。が、具体的に動くというものではない。このような時には、先人たちの闘いを振りかえり、学ぶこと、また、私の自信、沖縄の戦後史を歩んできた。自分自身の歴史を振り返る記録メモ取るのもいいのかもしれない。

 明日は、高江の判決が出る。いけないのは残念だ。もし、控訴審になったら沖縄非暴力の正当性で法廷に立ちたい。

  辺野古『座込み』テント村8年(16年)
   高江座り込み5年

 今日の辺野古(12日)
うるま市の病院通院の帰り、辺野古テント村に寄った。ムドゥイビーサ(戻り寒さ)で北西の冷たい風、太陽がこぼれ、海の色は夏の近いこと告げているが、沖には揚陸艦(デンバー級)らしきものの船影が浮かぶ。今春、強襲揚陸艦エセックスは同型艦ボノム・リシャール(満載排水量40,500トン、全長257m、艦載機CH46ー42機、AV-8Bハリアー116機、LCAC3隻、士官104人、兵員1004人、上陸部隊1800人、吃水8,5m)に代わるようだ。

DSC01590.jpg
洋上にかすかに揚陸艦 DSC01587.jpg

 毎日、毎日
 フエンスのバーナー、海兵隊がとると、こちらはまた張り出す。小さな闘いだが、負けない意思を込めた大きな闘いだ。全国から送られるバーナーやリボンに意義がある。君もあなたも送ってみませんか。
DSC01589.jpg


 座り込み2885日(3月12日)
   3000日には節目のイベント?

 現場の闘い始まったとき、教師定年で自由人になっていた。闘いを日々取り仕切る役目を負う。私の意思に明確な非暴力と愚直な座り込みの構想があったかは定かでない。戦後の様々な闘いに参加して、沖縄の先人たちが、私たちに何を遺産として残したかは体に染みついていた。いわゆる≪70年安保」≫の頃、ヘルメット、マスク、ゲバ棒スタイルが隆盛するが、私には無縁であった。1980年代末、基地の20年使用期限(92)問題で沖縄ハンセン地主、一坪反戦地主の闘いがあったが、全国的報道はなかった。
 沖縄ハンセン地主のシンボルが阿波根昌鴻翁、すでに、幾度もメモ記録に記していますが、沖縄自立的社会科教育ので沖縄戦後史学習に入って、「不屈」「愚直」な沖縄民衆の歴史を教えていた。
 テント村開設とともに、阿波根昌鴻の非暴力と「5本の指」の思想が、テント村実践として確立されたことは当然で必然的であったとい言える。
 テント村開設の3月間は、週に1度は、機動隊導入を想定して、「ごぼう抜き」訓練をやっていた。
 これは、80年代末の自衛隊・米軍の基地強化の諸闘争の経験を活かすためであった。
 07年夏、高江の闘い始まると、辺野古の闘いの経験を伝えるため、仲間たちの了解を得て、重要な時に、勝手に指揮らしきことをしていた。今、高江は「言葉の暴力」をも禁止し、闘いを組んでいる。

すでに、私の沖縄関係蔵書は資料館や後輩に譲っているので、記憶の中の代表的3つの闘いを観る。
テント村は2885日を刻むDSC01591.jpg

 (メモ的記録)
  安波ハリアーパット阻止の闘い
   安田の闘いの成果に立った「村民ぐるみ」の闘い

 私は、1978年、国頭村、大宜見村、東村を学区とする辺土名高校(母校)に勤務、一般の教師の2倍異例の9年間過ごす。安波は典型的山村の原風景の村で家庭訪問で毎年ビデオに収めているのだがどこに収めているか探せないでいる。福地ダム開発は陰と陽の社会的問題を含み、教育現場も影響を与えていた。安波ダムに関して、安波区に対しダム労働者の「飯場」を村に作ってはならないと提案していた。ダム開発と教育メモは(拙著『学園に愛とロマンを求めて』)記録に残し、1986年南部の高校への転勤となる。
 1986年、米軍は安波ダム南(ダム入口に道路残る)にハリアーパット建設を通告、村議会は反対決議をする。翌、MP隊と激しい阻止闘争となる。安波区と村民は長期戦を覚悟して監視小屋を作り、ねばり強い姿勢を示し中止に追い込む。(伊江島へ)

 恩納村都市型訓練
  ゴボ=抜きされても屈せず

 同時期、恩納村では都市型訓練基地建設の闘いがあった。沖縄県警は機動隊動員して住民を、ゴボー抜きを繰り返した。村の人々は平然と元の場所に戻り幾日も闘い勝利する。
 辺野古初期、この闘いにいた体験者の指導で訓練受けていた。

 本部町豊原
  自衛隊通信施設(P3C)反対闘争

 2008年8月11日、本部町豊原P3C通信施設断念のニュースが報道された。20余年の闘争小屋「すわり込」の愚直の勝利であった。
 この日、私は連日、違法アセス事前調査の闘いで海に出ていて、疲労・熱中症などからくる複合的な脳梗塞で入院していた。 第2代目テント村村長故当山栄氏と電話で喜んだ。当山氏は陸から冷静指示を出していた。支援やガイドでいくども尋ねた闘争小屋であった。
この勝利は、辺野古にとって大きな励ましになった。

当山氏も連日、守る会に宿泊していて、彼の体も病魔が住み着いていたのかもしれない。010年12月、癌で逝く。

 豊原P3Cの闘いについては琉球新報社説を掲げます。若い世代が豊原の闘いから何を学んだか江藤君のブログを紹介する。

(明日から、「すわり込」と非暴力、平和行進の発祥の地、伊江島の記録から民衆の遺産、継承をメモ記録)

 琉球新報08年8月12日
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-134116-storytopic-11.html
江藤直樹ブログ
http://janjan.voicejapan.org/area/0810/0810169601/1

琉球新報社説(12日)
移設工事「先取り」 膨大な無駄遣いはやめよ
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-188539-storytopic-11.html.php

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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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