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沖縄座り込み抵抗権(1)ー「不屈」「愚直」「チムグクル」

やはり、来ていた強襲揚陸艦ボノム・リシャール
  船体番号「エセックス」(2)、ボノブ・リシャール(6)
http://www.rimpeace.or.jp/jrp/okinawa/120310lhd6.html
 (リーム・ピース「追跡在日米軍」より

今日、高江判決


沖縄座りこみ抵抗権
 日本国憲法法体系でも侵すことのできない権利(1)


はじめに 
辺野古の座り込み、高江の座り込みが非暴力と結合して「不屈」と「愚直」に継続され、SACO合意、再編成日米合意を揺さぶっている。沖縄の戦後、米軍単独占領からサンフランシスコ条約の米軍支配は大統領行政命令により米琉球民政府の布令・布告によって傀儡的琉球政府(主席は高等弁務官任命)、琉球立法院、琉球裁判所を設立した。
 琉球立法院の設立日、瀬長亀次郎立法議員は米国への忠誠を拒否して座ったままであった。彼の「不屈」な闘いの始まりであった。
 サンフランシスコ条約が」が発効(53年4月28日)すると米民政府は布令を出し土地強奪に乗り出し、伊江島の阿波根昌鴻の非暴力と5本の指の「愚直」な闘い、座りこみと乞食行進に象徴される。
 これらの闘いは1960年沖縄県祖国復帰協議会(結成4月28日)に受け継がれ、復帰行進、網の目行進などに受け継がれ、米軍支配下で、人権、主席公選、自治などの大衆闘争と「座込み」などの闘いが、沖縄の闘いとして多くの成果を上げてゆく、これらの蓄積が1995年10月21日の県民大会に示され、50年代の土地闘争、60年代の土地闘争(11日「宝の海」)と復帰運動、80年代後半の基地強化に対する県民の闘いは(11日、12日「宝の海」)、辺野古・高江の闘いに受け継がれる。
 90年代への継承は、私の日記に見てみたい。

旗の見えない集会の心(96年1月20日日記)
 10月21日の午後、宜野湾市の海浜公園に集結した8万5000余の沖縄県民は、司会者の「みんなの顔が見えるように旗を降ろしましょう」の声に旗をたたみ、翌日の新聞のカラー写真は白黒のように見える。
 この集会の特色は人間尊厳への高らかな宣言であり、沖縄の自主的自治、平和な沖縄を築きあげてゆく誓いであった。在京ジャーナリズムの取材陣の中には、この静かな集会にもの足りなさを感じた向きもあったと言われている。が、白黒の集会の中に、沖縄県民の豊かな感性と理性的な歴史体験の蓄積の諸結集を見落としてはならない。それ故に、日米両政府に威嚇を与えていると、私は認識している。
   (『未来をひらく教育』96年105号収録)
 沖縄の闘いの心 
  「チムグルサン」の共有(96年5月11日日記)

 沖縄には「かわいそう」と言う言葉は無いのです。「かわいそう」に匹敵する言葉は「チムグルシ」と言うのです。あるいは地方にあっては「チムグルサン」。さらに加えると「チムグクル」と言います。チムと言うのは肝の琴です。心です。心と心の共有とも言うべきものです。
 あの少女の痛みの心の中に自分の心も入って生きたいというのです。簡単に言うと痛みをお互いに共有しようというのが「チムグクル」なのです。少女と母親の勇気の共有含めた「チムグクル」を豊かにしようと歩きはじめるのです。
  (「『憲法を暮らしの中に』を考える」立命館大学土曜講座ブックレット1収録)
 日本の戦後史を観るとき、沖縄と本土で大きな違いがあります。まず、そのことを、私の戦争と戦後史の授業から見てみます。
 日本二つの占領
  君の親の戦後の始まりは

 沖縄戦後史はどのように歩むのか、私の社会科の授業から見てみたい。
1、 本土の戦後、ポツダム宣言受諾(8月15日)、連合国極東委員会(GHQ)占領、日本国憲法制定、「里の秋」「リンゴの歌」
2、 沖縄、3月26日沖縄戦(地上戦)、ミニッツ布告、皇軍殲滅、本土攻撃基地、収容所(各自の戦後の始まり)「屋嘉節」「われは膿の子」(我は膿の子/シラミの子/弾ふる荒れ野に身をすくめ/煙たなびくカバヤ(収容所天幕)こそ/わが懐かしき住家ねど)、二見情話
(「詩と歌があり、子どもや高校生を教材化した沖縄学習」『平和教育』)
 すべてが破壊尽くされた沖縄戦、収容所から始まる沖縄後の殺生与奪権は米占領兵に握られていた。
 すべて、失った沖縄、人間の生活は原始的自然状態に戻り、文明らしきものは戦争の残骸、山積みされた米軍の砲弾、米軍基地の物資であった。米軍基地、キャンプの物資を盗むことを「戦果」だと言った。
 海のみは、今では想像できないほど魚が群れていた。船の漁具もなかった。不発弾、米軍基地から爆弾の「戦果」の火薬を抜いてダイナマイトつくり、ダイナマイトで魚を獲った。爆発後、人間とサメの獲りあいであった。ダイナマイト漁で死んだ人122名、手足など失った人122名の統計が沖縄タイムスの記録にある。唯一の換金作物は「戦果」と砲弾の残骸、不発弾の解体で得たスクラップであった。

 沖縄の縮図としての伊江島
  日本人が消えた島

 伊江島戦線は4月16日から約1週間、沖縄地上戦のすべての実相があり、米軍は皇軍が建設した飛行場を本土攻撃基地にし、生き残った住民を5月初旬に慶良間列島に強制移住、疎開で今帰仁村に疎開していた人々(約3000人)は大浦崎収容所に収容されていた。伊江島は日本人のいない島(4人がいた)となり、島に帰れたのは1947年6月ごろであった。

無題056
(伊江沖海戦、20年4月7日、『太陽』から)
米軍は絶対主義的専制、軍事植民地支配、それは、サンフランシスコ条約の沖縄支配まで及ぶ、本土ではGHQ占領下で民主的改革がなされ日本国憲法が制定され基本的人権が高らかに宣言された。
昭和天皇は1947年、米国による沖縄占領の継続と長期租借を内容とする書簡を連合国最高政治顧問シーボルトに送った。いわゆる天皇メッセージである。1950年朝鮮戦争が起こり、沖縄基地は出撃基地となり、日本は朝鮮戦争特需で復興への道を進みますが、沖縄戦で血を吸った鉄くずが八幡製鉄復興の資源となったことは書かれない。
サンフランシスコ平和条約(1952年4月28日発効)
 (明日、資料から見る伊江の現状)

沖縄基地
 思いやり予算
 琉球新報(13日)

http://ryu
琉球新報社説
 思いやり予算を被災地に(14)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-188611-storytopic-11.htmlkyushimpo.jp/news/storyid-188578-storytopic-3.html

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高江スラップ訴訟判決

那覇地裁現場から、「不当判決」の連絡がありました。

伊佐真次氏に対する、国の請求が認められ、安次嶺現達氏への請求は棄却。

伊佐氏については、4日間「妨害した」という理由。
詳細は、これからはっきりすると思います。
プロフィール

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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