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沖縄の抵抗権(2)-沖縄の縮図伊江島

 高江不当判決
 絶対主義的軍事・植民地専制の軍事裁判以来47年ぶり
  基地建設抵抗への
 日本国憲法法体系下での不当判決
  (新聞・テレビ報道は第2信にて)



沖縄座りこみ抵抗権
 日本国憲法法体系でも侵すことのできない権利(2)


  軍事植民地支配の中で
奪い尽くせ、焼き尽くせ、
 非暴力・座り込み・平和行進の源流 

  第三条
 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
 米軍は布令109号[土地収用令]を発し土地強奪に乗り出した。

伊江島・伊佐浜の闘いは
 沖縄の抵抗の発火・導火線

 「宝の海」(3月12日)に次のように書いた。
 1950年代の基地闘争(銃剣とブルドーザー)に、米軍は布令刑法で瀬長亀次郎らを獄中(人民党事件1954)に送るとともに、反共攻撃『旋風』を煽り、伊江島の非暴力と積極的非暴力(集団農耕)を、軍事裁判で処理した。
 大学生・高校生にも弾圧はおよび(第1次・第2次琉球大学事件)
 それでも、農民たちは「爆弾の降る」中、集団耕作を持続した。不発弾は唯一の「換金作物」で、爆死した人少なくない。
伊江島・伊佐浜の闘いは、沖縄の抵抗の発火点・導火線と言われる。
 伊江島に関する資料、私の戦後史授業から見てみる。
 
 「汽車」替え歌
 いまは銘刈にいまは具志 今は宜野湾伊佐浜と
 思うまもなく伊江島も 土地取り上げに民は泣く
 遠くに見えるあのむらも 近くに見えるこの街も
森も林も田も墓も 次から次へと接収だ
まわり道路や山や川 変わるけしきの恐ろしさ
それを見つめているうちに 殺人兵舎が立ちならぶ
  (「詩と歌があり、子どもや高校生を教材化した沖縄学習」1996年『平和教育』50号)
066.jpg
 (1955年、伊江中学生の絵、いわゆる「銃剣とブルドーザー」拙著『太陽』より)

 沖縄県民の抵抗は小録村具志部落から始まった。
琉球立法院は1954年4月、「土地を守る4原則」を決議し、米軍に抵抗した。米軍は抵抗の先頭に立っていた沖縄人民党への弾圧を強行し、瀬長亀次郎ら幹部を獄中に送り、反共旋風が吹き荒れた。
 土地を守る四原則(スローガン)
• 一括払い反対
• 適正補償請求
• 損害賠償請求
• 新規接収反対

伊江島土地闘争と非暴力
陳情規定

1、 反米的にならないこと。
2、 怒ったり悪口を言わないこと。
3、 必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動を取ること。嘘偽りは絶対に語らないこと。
4、 会談の時は必ず座ること。
5、 集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒きれその他手に持たないこと。
6、 耳より上に手を上げないこと(米軍は我々が手を上げると暴力をふるったと言って写真をとる)
7、 大きな声を出さず、静かに話す。
8、 人道、道徳、宗教の精神と態度で折衝し、布令、布告など誤った放棄にとらわれず、道理を通して訴えること。
9、 軍を恐れてはならない。
10、 人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
11、 このお願いを通すための規定を最後まで守ること。
右誓約いたします。
1954年11月23日 真謝、西崎全地主一同署名
067.jpg
 (銃撃、爆弾投下監視塔、1955年、伊江中学生の絵、『太陽』より)


銃剣の暴力
 爆弾と模擬原爆の降る島
 1955年伊江島 

3月11日 催涙ガス、救急車など伴った完全武装の米兵約300人余が上陸用船艇で伊江島大口浜から上陸。

3月12日 工作隊長ガイディヤー中佐他武装兵約300人によって真謝部落の測量開始。午前7時、伊江村真謝1063番地並里清二(当時62歳)さん宅地内に数十名の武装兵が測量に来たので、並里さんは測量止めるよう訴えると、殴る、蹴るなどの暴行を加え、荒縄で縛り毛布を巻き付けた上、金網の中に放り込み、飛行機で軍事裁判所(嘉手納)に連行し、公務執行妨害、煽動、暴行の罪をきせた。

3月13日、着剣した武装兵で守られた作業隊が、村民の中止要請にもかかわらず、家屋を次々に破壊していく。横暴な現地米軍との交渉に見切りをつけた農民は代表7人を派遣し、この日から「琉球政府」に対する座りこみ陳情を始める。

3月14日、 米軍は前日に引き続き、残りの農家に侵入して銃を突きつけて農民たちを家から追い出し、家財道具を外へ放りだして農家を放火し、また、ブルトーザーで破壊した。こうして昨日からこの日までに十三戸の農家は跡形もなく焼き払われ、破壊しつくされた。家を焼かれ、土地を奪われた13戸の農民たちを米軍は無理やりトラックに積み込んで、接収予定地の外の野原に張ったテント小屋に放りこんだ。強制収容されたもの77人、以後5ヶ月テント小屋生活が続く。

 3月22日 西崎区の内間初枝ちゃん(6歳)は、自分の宅地内で遊んでいて米兵の撃った銃弾に大腿部を貫かれて重傷を負う

4月21日 生活補償打ち切りと言う事態に直面し、農民たちは立ち入り禁止区侵入を声明して実力耕作を始めた。

5月14日 射爆演習によって山林、原野火災発生した。

6月13日 農民たちの実力耕作に手をやいた米軍は、立ち入り禁止区域内の耕作者80数人を逮捕し暴行を加える。

6月14日 80数人の逮捕者のうち32人に対し、即決軍事裁判(コザにて)で懲役3ヶ月、執行猶予1年の判決が下る。

6月29日(毎日新聞)炎天続きの天幕生活中に栄養失調に陥り、続々病人を出し、中峯キヨ(36歳)4人の子ども残して死す。

7月21日、「乞食行進」決定、翌旧正まで。

 8月20日 今村賢男(18歳)再逮捕、(出獄後糸満に売られ、海の事故で死す。『最初の獄入り』の少年、以下に紹介)
   (『模擬原爆ふる中で』伊江島基地資料実行委員会製作に大西資料追加)

068.jpg
 (銃撃・爆弾投下、1955年、伊江中学生の絵『太陽』より)

   二つの軍事即決裁判
 その1-軍事即決裁判

小さなコンクリート建ての裁判所
基地の街の裁判所
それは…軍事裁判所である
そして僕は今日初めて知った
罪人によって検挙された良民を
実にてきぱきと裁いてしまうところだと
  目の前の
  5脚の長い腰掛に
  土にまみれたぼろをまとい
  ひげをぼうぼうとはやした
  32名の農夫が今裁かれている
  彼らのある者は
  泥だらけのゴム草履
  あるものは雨靴をはき
  そして
  大部分のものはハダシのままだった
  うら若い18歳位の青年や
  62歳の年寄りもまじっていた
証言台には
4人の鬼のような米兵が座っていた
彼らの腰にはピストルがさがっていた
彼らの青くくぼんだきつい目は
時々、農民たちをにらみおろしていた
そしてまた
時々
何か沖縄人の通訳とべらべら話しては
ゲラゲラ笑ったりした
間もなく米兵の証言が始まった
農耕をしていたのに
「すわりこみをしていた」といい
一戸にしかくれてない材料を
「13戸に与えた」といい
強制立ち退き後の住民の
「幕舎生活は30日だ」と言っていた
実はその日で90日目だったのに・・・
続いて
被告の中の1青年が発言を求めて
これらの証言を
かたっぱしら覆したが
続いて
判事シャドウ少佐による
尋問が始まった
  貧弱な農民ではあるが
  正直でねばり強い態度に行き詰まった判事は
   「お前はウソをついている偽証罪だ、偽証罪だ」と
  顔を真赤にしてわめき脅していた
そして、最後に
判事の論告があった
 「君たちは
  一部の人々に誘導されている
 彼らは
 君たちの犠牲をタテに
あくまでも軍と戦おうとしているのだ
君たちは罪を犯しているから
この法廷は
君たち32名のひとりびとりに
3か月の有罪を言い渡す
 だが、しかし
 1年の執行猶予にしてやる
 2度と一部の人々に誘導されるな
もし、1か年内に
いかなる罪にでも問われ場合は
この「3か月」に
新しい罰を合わせて罰する・・・
琉球政府に相談してあるから
本部までは
琉球政府の援助によって帰りなさい」と・・・
 あー
 何たる暗黒の島沖縄であろう
 承諾せぬままに・・・・軍は
 伊江島真謝部落の30戸の農民から
 各々半分以上の土地を取り上げ
 49戸の農民の土地を全部奪い 
 そのうち
 13戸の立派な家屋を
 ブルドーザーで押し倒してすきならし
 あるいはたったままの家に火を放ち
 逃げまわる山羊をまとに射撃のけいこをし
 食と住の一切を奪い
 死ぬに死ねず
 柵内で自分の土地を耕せば
 不法侵入で3か月の刑である
すでに 与那城ツルさんの如きは
子どもに与える一握りの米もなく
泣きながら・・・
泣きながら17歳のわが子を
糸満の漁夫に売り渡している
 6月13日に逮捕された人々の
 明14日の軍事即決裁判の
 傍聴者はわずか9人であるのに
 二十名余の
 私服警官の配置される沖縄
 そしてまた
 きょう六月五日の島内新聞は一斉に
 「民政官、立法院へ警告」と見出しで
 「もし伊江島問題にのみ没頭し
 予算案が年度内に成立しない場合は
 議会の解散を勧告する用意あり」と
 おどしている。
 以下略
   (以下略1,955年月14~17日記す。高宮城清『雑記帳』『沖縄の太陽』収録)


 その2-最初の獄入り
   八月二十日の夜
   伊江島真謝の部落民は
   そこの木の下 ここの家のかどに
   幾人かが寄り合ってしょげていた。
   どの群れにいっても
   だまってうつむいていた。
   だが、
   彼らの眼は涙をじっとこらえ
   その唇は
   固くかみしめられていた。
     (中略)
   目を覚ました今村賢勇は
   「畑に行けばいくらでも芋や野菜があるものをなあ……」
      (中略)
   祖母思いの温和な彼は
   その祖母のなげきにやるせなく
   クワを取り、家を抜け出していった。
   バリケードをくぐり
   自分の芋畑に入り
   夢中で掘りはじめたが
   一、二分もすると後ろから
   大きな犬が
   唸りながら近づいてきた
   犬は二匹だった。
     (中略)
   八月二二日…月曜の朝
   弁護のかいもなく
   軍の思うままに裁かれた
   三二名の農夫の中一人で
     (中略)
   瓦礫の高い塀でめぐらされた
   中央刑務所の中で
   祖母の身を案じつつ
   冷たい冬の明け暮れを数えている
   彼は今
   満一八歳にもならない少年であるのに…
     (後略)
         一九五五年八月三一日 高宮城清作『新女苑』「沖縄を忘れないでください」『太陽』収録より
 乞食行進
 「復帰・平和平和行進」の源流

陳情口説
ウチナー口
♪さてむ世ぬ中 あさましや いせに話せば 聞ちみしょり 沖縄うしんか うんにゅきら
♪世界(シケ)にとゆまるアメリカぬ 神ぬ人びと わが土地ゆ 取て軍用地 うち使てぃ
♪畑ぬまんまる金網ゆ まるくみぐらち うぬすばに 鉄砲かたみてぃ 番さびん
♪親ぬゆじりぬ畑山や いかに黄金(クガニ)ぬ土地やしが うりん知らんさ アメリカや
♪真謝ぬ部落ぬ人々や うりから政府ぬ方々に う願(ニゲ)ぬだんだん はなちゃりば
♪たんでぃ主席ん 聞ちみしょり わした百姓がうめゆとてぃ う願いさびしんむてぃぬふか
♪親ぬ譲りぬ畑山や あとてぃ命や ちながりさ いすじわが畑 取ぅいむるし
♪願ぬだんだんしちうしが 耳に入りらんわが主席 らちんあかんさ くぬしざま
♪うりから部落ぬ人々や 是非とぅむ沖縄ぬうしんかに 頼てぃうやびん 聞ちたぼり
♪那覇とぅ糸満 石川ぬ 町ぬ隅(シミ)うてぃ 願さりば わしたう願いん 聞ちみせん
♪涙ながらに 聞ちみそてぃ 町ぬ戻(ムド)ぅいぬ う情や 誠真実 ありがたや

脱原発で「替え歌」ユーチーブ
 陳情口説が「沖縄の心ーチムグクル」として、沖縄の民衆に与えた歴史的影響ははかりしれないものがある。一度聞いてみてください。なお、伊江島の民謡・舞踊は、沖縄本島と微妙に違い、無形文化財に指定されている。曲は 「上り口説」野里竹松翁は語りかけるように、噛みしめるように謡っていた記憶がある。

陳情口説「替え歌ですが聞けます。
http://blogs.yahoo.co.jp/tatakau_yunion_okinawa/38638636.html

 標準語訳
・さても世の中はあさましいことだ 腹の中から話しますから 聞いて下さい沖縄の皆さん
 聞いて下さい
・世界にとどろきわたるアメリカの神のような人々が わが土地を取って うち使ってしまっ
 た
・畑の周りに金網を 丸くめぐらして そのそばに 鉄砲かついで番をしています
・親譲りの畑は黄金にまさった土地ですが それを知らない アメリカだ
・真謝の部落の人々は それから政府の方々にお願いし いろいろと話もしました
・どうか主席様聞いて下さい 私ら百姓があなたの前に出て お願いするのはただごとで
 はありません
・親譲りの畑があってこそ 命がつながっています すぐに私らの畑を取り返して下さい
・だんだんとお願いしましたが 耳にも入れないわが主席 らちもあかないこの仕業
・それから部落の人々は ぜひとも沖縄の皆さんに 頼っていますから 聞いて下さい
・那覇や糸満、石川の町の隅々で お願いをしたならば 私らの願いを聞いて下さいました
・涙ながらに聞いて下さって 帰りに誠真実ありがたいことだと 感じたことでした
 (歌詞と訳文は沖縄国際大学大学院地域文化研究科「ウチナーンチュのエンパワーメントの確立ーー沖縄音楽社会史の変遷を通して」を参照しました)

 「乞食行進」では、三線を弾きながらこの「陳情口説」を歌って回ったという。伊江島の土地を守るたたかいは、その後の全県的な「島ぐるみ闘争」へのつながっていったのである。
 なお、この曲のことは、ブログにアップしてある「戦世と平和の沖縄島唄」でも紹介している。関心のある方は、そちらものぞいてみて下さい
 (インターネットより)
 「沖縄の抵抗3、伊江年表、陳情規定。陳情口説から現在の闘いの解説・分析」は他の課題にも追われて17日(土)になる。
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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