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辺野古散歩


辺野古散歩
 午後から辺野古散歩に出かけました。北東の風が吹き少し肌寒い。炭が焚かれていました。
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 海兵隊のゴムボート訓練が始まりました
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 2時30分ごろ、2台の水陸両用戦車出てきました。
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 沖縄民医連新任職員研修
  約30分の話をしました。
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啄木を沖縄から見る(6)
 「おれは北だ、貴様は南だ」の盟約
 私は、啄木と正忠が会う前の次の啄木の歌を、まだ、会わぬ正忠を連想した。
  
 はるかなる海のかなたの島に似て相見る日思いつかれぬ
     (『心の花』明治41年7月号)

啄木は『明星』で南の海を詠い活躍し始めた正忠を意識していた。それは啄木
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたわむる
などの海の歌が生まれる時期と重なる。
 啄木は正忠を怒らしたり、からかったりすることが好きのようで、初対面から正忠を怒らしている。

「一座の中に、どうみても気に食わない男が一人いた。・・それを幹先生や周辺の人たちが、いやにちやほやしていた」「何かしら犯しがたい風格とただならぬ気魄のあるのを私も見逃さなかった」「その男が突然私に向かって」
 「山城君。君のくにじゃ、今でも人が死んだら喰らうのか」と飛んでもない質問されて、一時にカッとなった私は「馬鹿医言え、そんなことがあるか」とハネ返したのを与謝野先生がうまくとりなされた事があった。その場ですぐわかったが、それが誰であろう。わが石川啄木の奴だった。以来私は急速に彼と親しくなり、おれは北だ、貴様は南だ、ひとつ、大いに提携して、東京の奴らを押さえつけてやろう。という、盟約まで申し込ませる仲になった」(「私と啄木」『月刊琉球』昭和12年6月号)

 啄木ローマ字日記は、啄木の人生観含めた自己革命とも言える。啄木は北海道に残した家族を呼び寄せ、「喰らうべき詩」などで、自虐的な人間否定、荒廃した心のすさみを克服してゆきます。
  「われわれの日常の食事の物のごとく」
  「詩人はまず第一に『人』でなければならぬ」
  「第二に『人』でなければならぬ」
  「第三に『人』でなければならぬ」
    (「喰らうべき詩」)
 そして、啄木「奇跡の年」明治43年を迎えます。琉球の文芸も琉球の伝統的文芸を目指すものと「琉球の文芸復興」とする近代文学の相克の年であった言われている。『スバル』などの文芸誌に琉球を鮮明に詠う新しい人々が登場し正忠も琉球の鮮やかな原色の色彩詠む。琉球の文学青年たちにとって「8886」の琉歌から「57577」への転換であった。
 
 琉球の白き墓場をあいびきの家とし酒をの飲む家とする
     (摩文仁朝信『スバル』1910年7月号12首)
 
  夕さればかの色町の三味の音がわれの情けをもてあそぶかな
  三味線のはしやげる音とものすごき波の音が枕にきたる
      (上間正雄『スバル』1,910年月号)
 琉球の文芸復興は、また、琉球を棄てることでもあった。

 啄木の歌は「東海の小島」の日本の地理的空間から
   大海の
   その片隅につらなれる島々の上に
   秋の風吹く
 と広がってゆくと同時に、日韓併合、大逆事件を背景に国家論、労働者論へと思想的深化を遂げ、明治45年は東京都電のストライキで開け、啄木の命は風前の灯ながら、新しき明日の担い手を「国民が団結すれば勝つという事、多数は力なりということを知って来るのは、オオルド・ニッポンの目からは無論危険極まると見えるに違いない」と記す。

 啄木の死とともに明治は終わる。その前年、正忠は文学的野心を捨て、那覇に帰り、歯医者として人生を歩むとともに、啄木の歌を通して、大正・昭和期の若い文学者を育ててゆくのであった。
 (正忠は書においても沖縄三蹟と言われ墨絵にも非凡な才能を発揮)

  琉歌については   3月8日「世界女性デー」「宝の海」日記に
 琉球の女流歌人恩納ナベと遊女吉屋チル
 労農党で活躍する正忠をメモしています。
http://teruo024.blog47.fc2.com/blog-date-20120308.html

QABニュース
嘉手納町議会 即応訓練中止など求める
http://www.qab.co.jp/news/2012040534798.html
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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