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辺野古散歩と沖縄啄木享有メモ


 辺野古散歩
土曜日、天気がいいので辺野古に散歩に行く、大干潮で辺野古漁港から平島・長島に潮干狩りに行く船が次々に出て行く、日光浴楽しむ。昼ごろに大勢のツアーあった。(明日報告)

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啄木を沖縄から見る(8
  まぼろしの啄木歌碑2号
1922年(大正11年)渋民村に啄木歌碑第1号が建った。山城正忠は5円送った。
   やわらかに柳あおめる北上の
   岸辺に見ゆ
   泣けどとごとくに
 1923年、山城正忠と弟子の国吉真哲は全国第2番目の啄木歌碑建立を目指すが資金調達できずに、55年後の歳月を経て1977年、真教寺に沖縄啄木研究会が啄木歌碑を建て、正忠は1949年に没しているが、山城正忠の名が刻まれる。
 正忠の歌碑は釈超空(折口信夫)の歌碑とともに波の上神宮の境内に建つ。
   朱の瓦屋根のかげ(漢字出せず)遊春の日
   ものみなよろしわが住める那覇

 普通、歌碑の歌は境内を向きますが、正忠の歌は外を向き、そこはチージ(辻遊郭)ではるか向こうに啄木の歌碑と向かい合っている。大正13年(1924)正忠を会長に琉球歌人連盟が設立され大正期の新青年たちが結集され、思想的にもアナーキストや社会主義の思想など活発で山之口獏もいる。啄木・萩原朔太郎らの影響を受け、昭和の社会主義運動に大きな影響を与える三木露風の弟子上里春生らもいた。獏の詩によって、沖縄の文学は日本社会で認められてゆく。

「僕たちは毎日のように真哲の家に集まり、啄木調の短歌を朗読したり、酒を飲んだり、時に辻の色町に足を運んだり、そんなことばかりして暮らしたのである」(山之口莫『僕の半記』)

   お国は?と女は言った
   さて、僕の国はどこなんだか。とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、
   刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしている僕の国か!
   ずっとむかふ
    (以下略)
  (『山之口獏全集第1巻』思潮社刊より)

  正忠『紙銭を焼く』を出版
    鉄幹の死に捧げる

 昭和13年(1938年)、正忠は息子の死、師鉄幹の死に捧げる歌集『紙銭を焼く』を出版します。序歌は与謝野晶子、跋は伊波普猶である。昭和の労働運動の隆盛、弾圧、軍国主義の台頭をよもとることができる。
 昭和3年(1928)、普通選挙に沖縄でも労農党の候補立て闘われる。供託金を集めるために正忠(沖縄三蹟と墨絵にも優れていた)と国吉は、啄木の歌を短冊や色紙に書いて奮戦、また、関西の女工たちもカンパを送った。
   飢えながらなほ働けど風荒れているその報いなし農民の汗
   子らのため煮たる蘇鉄の實の毒に中り貧しき親死にて行く
   己が身を減らしたまえと病める児を抱き手祈りぬ余り軽きに
   共産主義のひろめに支那服を着て我を訪ふ似非法師かな
   車より「歯を守れ」とてビラ撒く歌人われも今日は町医者
  
 昭和に入ると農民、労働運動が活発になり、
  沖縄教職員組合(OIL昭和6年)
  大宜見村村政革新同盟(昭和6・7年)
 などだが、弾圧は凄まじかった。OIL関係者は拘置所で発狂、眞栄田之僕の脳天には10センチほどの傷がつけられ半死の状況で引き取られ死ぬ。眞栄田の姉が伊波冬子(伊波普猶の妻、折口信夫に師事)である。
   若くして草かげ人なりはてて汝がため今は湧もいでず
   おごそかに世のみ判きの前にたつかなしき宿世あひ守りつ
   (『白菊の花ー伊波冬子遺稿集』)
 日本は昭和13年(1938)日中戦争に開始、軍国主義が沖縄社会にじゅうまんする。このとき、ピカソの芸術にも影響を与えた「世界のフジタ」藤田嗣冶が沖縄の新進画家南風原朝光を伴ってお忍びでやってくる。

な無題
(『紙銭を焼く』藤田嗣冶の描く山城正忠)

世界の藤田継冶と正忠
   正忠肖像画」(1)

 国吉真哲は正忠の弟子で「文壇の整理役」と言われ、南風原朝光は友人で、藤田来沖の記事を琉球新報、月間琉球に残している。おそらく、正忠は『紙銭を焼く』の肖像画、国吉を介在して書いてもらったのであろう。
 日本における藤田は戦争画の藤田と芸術家の戦争責任を問われる。この時期、正忠の歌も戦争を賛美するよう微妙に変化してゆくのであった。
 そして、天皇制国体の捨石にされた沖縄戦の惨事へと。
   子を既にソ満の境にたたせたる従妹痩せたり嘆かざれども
   たたかひのさまを語り手て友撫づるひげよりのぞく痩せし頬の骨
 おそらく、満州事変の頃を謡うのであろう。
   戦えど王羲之の書にしたためばあわれなり支那の民
   あわれなり南京城にのこれるは将の寝台宋のよく浴房
 南京陥落、書道家正忠の心境が読める。翼賛会と軍国主義の中で・・・・・
   南京の陥たるを祝ぐさかずきに児のまぼろしもほほえみ浮
   風よ凪げ波よしづまれすめらぎの御楯の兵ら船出づる日は.
  (『紙銭を焼く』より)

  『那覇の女』(2)
 啄木享有の歴史を追っていると、啄木歌碑建立の中心になった国吉真哲にたどり着く。正忠肖像画から藤田を追ってみたら平野美術館の『那覇の女』を見たくなり、『紙銭を焼く』をもって訪ねた。驚いていた。私はすでにモデルを特定していた。ところが、2年ほど前に、平野美術館の学芸員から場所もモデルも違うので日経新聞に書くので、私の説を使わしてほしいとのことであった。絵も書くのでもないし、歴史の専門家でもないので別に損得なし。場所とモデルは糸満の遊郭とのこと、しかし、肖像画の右上に「那覇にて」となっている。その際に額縁に入った『那覇の女』が送られ、手紙も添えてあった。コピー画でも再版不能で手に入らないであろう。
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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