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国頭サバクイ考(2)ー父と母を位牌迎えて


 国頭サバクイ考(2)
ユンジチ(うる年)に
  父と母を迎えて

 今年はユンジチ(うる年)、今年はサングチターチヤー(3月が2回)法事ごとは、この年にやるのがいいといわれている。由来は各説がある。法事ごとが多いと労働日数が少なくなり、琉球王府が定めたとの説もある。
 父と母の位牌を実家から移した。この1年、父と母について記録を残した。母は昨年5月16日94歳の長寿で行った。。私の誕生日は5月15日、母は頑張った。
 母は普通の女性の人生ではなく、13歳でノロ職に就任し、80年村の神事、アガリマーイ(巡礼?)の人々のためにも祈りをささげた。
 すでに、述べているようにクエーナ、ウスデーク(臼太鼓)、祈りの言葉など、古代からの伝承を受け継いできた。子として、その口承、伝承をメモしてきた1年でもあった。
 これらの記録、資料を仏壇の位牌の引き出しにおいて、父とともに語って欲しいと思う。。「国頭サバクイ考」は、その一つである。QABが母の特集を作ってくれて感謝にたえない。

 子として一つの仕事を成し遂げたと思っている。村には神事をつかさどるノロは絶えた。ウシデークは絶えることはない。国頭サバクイ碑は、村の国道に建つ。どう解釈するか、わたしなりの説(?)をメモした。時代に流されず、原型を崩さず受け継がれることを願う。人間らしく、自然性を失わず、生きることは過去も、未来も同じであろう。自らの労働に誇りを持ち、讃えあう社会。母の人生は一つの村の1000年の歴史が刻まれている。原始女性は太陽であった。
 だが、琉球王国の地方の女性は、ジュリ(遊女)に売られ、それは、昭和の前期(拙著『啄木と沖縄』で考察)まで続いた。大城立裕が「沖縄戦は解放」と述べたが、母をめぐる所事象から琉球女性文化史を垣間見る。

仏壇に母と父を迎える
DSC02257.jpg
 ウンジャミでクエナを詠い踊る母(左)
          無題51
 ウンジャミでニライカナイの神へ
 幸と豊穣の祈り捧げて舞う母
無題52


 国頭サバクイ考(2)

 琉球王国時代の「労働演劇?」(2)
  「国頭サバクイ」はどのように発祥地で演じられるか
YouTubeなどで上演されているのは首里王讃える労働の謳歌が共通している。なぜ「サバクイ」と役人職がつけられているか。この役人は「サキクエー(酒のみ)」である。役人として失格を言うことによって、支配体制批判の序曲となる。
 私の実家に「かぎやで風」の原歌の碑が建った。おそらく、訪問者増えるであろう。村の国道に「国頭サバクイ」碑建っている。沖縄の家系図は王府および琉球王統系列と結びつけ琉球王府讃え、関連させる風習、伝承がある。
 私の家も察度王、尚円とともに歴史書に書かれる。民衆の視点が欠落する。奥間の「国頭サバクイ」には、琉球王府時代の民衆の怨嗟とも言える世界がリアルに見えると思う。

ウシデークの謡と舞は、9・10に入る。
  9 伊集の木
     あぬ伊集ぬ花や
     ましら花 さつい
     わみん いじゅやとて
     ましらばな さかな
      (伊集の花は白く咲く わみん(私も伊集の花だ。美しく咲いている。?まだ私若い?8・8・8・8)

  10 インチャーウーヤー
     いんちゃうーやー うみば
     わるぬ たみなゆい
     つぬ うとや とりば
     ねたみ なゆが
     私の勝手な解釈。
      (いちょううーや産んだら、わるぬ(私のためになる。つぬ(他人の夫とったら、ねたまれる?いちょ       ううやーはどんな子であろうか?私には今、わからない。だが・・・8・8・8・6)

     かしたらじ たらじ
     ぬちまでん たらじ
     ぬちうむる えまや
     さとや いもち
   私の勝手な解釈 
   1、(かしたらじ かしは私の今、知らない。たらじは不足の意。ずっと不足、命あるまでは里(愛する人)     は、通ってくる。)
   2、シヌグになると性のの問題、不倫の問題が入ってくるために琉球王府禁止と書いた。琉球王府の政治道徳は呈順則(名護大親方)の「六諭」の儒教的支配体制、六諭は幕藩体制の道徳でもある。私の解釈が正しいとすれば、王国支配の政治道徳に反する)

 この謡と舞の中で、男たちが登場し、舞台は国頭サバクイとなる。

 国頭サバクイ
1、サー 国頭(くんじゃん)サバクイ
   (ユイシーユイシー 囃子以下同)
 サー 酒(さき)ぬり サバクイ
   (ハイルレー ハーラレー ユイサー ハリガユーサー)囃子以下同)
2、サー 国頭 山から
  サー 出だちゃる 御材木(うぜむく)
3、サー長尾山 堅木や
  サー重(うぶ)さぬ 引らん
4、サー 深(うち)山 堅木や
  サー うなじぬ 前(め)一腹・・・・うなじ(ウナギ)
5、サー 老いてい 若さん
  サー 肝(ちむ)てぃち 合わちょてぃ
6、サー 鏡地 浜から
  サー 引かちやる 御材木
7、サー 北ぬ 御殿(ぅどぅん)・・・首里城や王家の屋敷
  サー いんじゃちやる 御材木
 
(奥間婦人会印刷物による。元歌は『奥間郷友誌』に詳しい)
 
再び女たちの舞で「国頭サバクイ」は終章となる。  

雨降りばー此の木
1、 此の木や此の木や
 引からん 引らん
 大和車に乗せて引かさんか
  (ハリクヌ ヤイヤ ヤイスリヨー ハリクヌ 囃子)
2、雨降りば雨降りば
 堅木ぬ薪燃いらんど
じょうしち母(アンマー)が 哀りすらどうや・・・じょうしち(台所の母)
 (上記 囃子)

  なぜ、労働演劇か
   舞台は神事の場、自然の中

 本来、国頭サバクイは舞台舞踊・演劇ではではない。旧歴2月2日土帝君(トージーク、北の御殿、南の御殿、村発祥の地に道教の神社,村社)、アブシバレーなどで行われる。

 中央に大きな材木囲んで女たちが臼太鼓を踊り(13・14曲)、終わりかける頃サバクイが登場して斧で材木削り、ウフェー(下役人)が、イモを食べながら出番を待ち、観衆を笑わす演技が前半の面白さ、サバクイが人集めの命令、ウフェーほら貝吹き、13歳から60歳まで集める。女たちもブーの対象、臼太鼓終わると、ウフェーは、藁を取り「さにとー」「出席」取る。屋号を呼び藁を折る人数点検(藁算?)、男たちは腰に弁当籠、フジョー(タバコ入れ)を下げている。女たちは丸太の縄を引く、ここでサバクイは斧を高く上げ、国頭サバクイを高らかに謡い、男たちは棒と鉄丙を打ち合い、女は手を振り、「鉄柄やーいー ヤイサーヤー」(囃子)を繰り返し丸太が滑るように引かれて行く。

 舞台舞踊は、サバクイの曲で勇ましくカチャーシー的に群舞になるけれども、奥間のサバクイは、衣裳も芭蕉布で労働服、さらに、「雨降りば」の女たちの謡で終わる。
 昨日の記録メモには、森の疲弊のため、馬は大宜見、国頭では禁止されたと書いた。

 女たちは過酷なブーに怒る。村についても鏡地浜までまだ引く。
  「引らん」、引けない、引けないを、繰り返し

 山から引いてきた材木は、奥間アサギマーに運ばれてきた。なぜ、平野では引けないのか。現在の道路で見るのではない。奥間平野は奥間・比地川が蛇行してできた。アサギの下から港までヌビーダー(沼地の田)である。土に埋まった材木、馬が引く車に乗せればいいのに、何で過酷な労働を強いるのだ。
  「大和車」で運べという。馬は飼育禁止。クエーナに「ヤマト旅」のクエーナがある。ヤマトは富をもたらす。「ヤマト車」の大和をどのように解釈するか、このヤマトヒヌカンのかまどから火さえ奪うヤマト、琉球王府と薩摩をさものであろうか。反逆罪の相当する。官僚たちに歌の言葉に、政治性をにじませていたと聞きますが、文学音痴には難解な問題である。
 
クエーナの「ヤマト旅)(日本共通語にする)
  急げ急げ
  役人たち
  とき遅く
  なりました
    (囃子)
  潮も
  満ち満ち
  急げ、急げ
  役人たち
    (簡略)
  泥海も
  走り抜け
  日本のみなと
  着きました
  曲玉は
  私がいただいて
  いただいてまた
  戻る路の
    (以下略)
 民衆役人で、役人が労働者になって、役人観の労働の意欲も、労働の分配も、まったく、違う「ヤマト」である

 御材木運びで、カマドの薪燃えない。薪の生産地でカマドが燃えないという事は、ブーで薪を取ることもできなく、それは、単なる燃えないのでなく「ソテツを常食し、蘇鉄も食えない餓死」(前掲『かにまん』の状況があった。ウシデークにはヤンバルの民衆の王国への怨嗟、怨念さえ読み取れる。首里では御冠船、組踊りが繰り広げられ、ヒヌカンの神に琉球王府を呪ったか。「テンペスト」でヒヌカンで王国支配した聞大君はジュリに転落してゆくが、支配体制の一つ聞え大君の転落は、都市士族が資本主義的富豪に屈していく王国末期である、このウシデークの歌に込められた地方の経済的疲弊含め、儒教的道徳、人心の乱れも読み取れる歌もウシデークの歌の中に読み取れる。
 
 国頭サバクイには、王国の支配にたする抵抗の芽生えがあった、と、見るのは、うがった見方か。「テンペスト」でも、琉球王国が内部から崩壊する要因を見ることができる。私は歴史家でもない、琉球王国支配者階級内部の政争は、貴族階級の歌、組踊りに見えるといわれるが、門外漢には無理な世界である。

 原始社会の女性文化から王国崩壊前兆を、自分の家(母の伝承)を見てきた。
 私の少年時代のやんばるは風景は、王国時代の原型をとどめていた時代ともいえる。

 琉球王朝時代、御冠船、組踊が強調される。国頭サバクイには民衆の演劇がすでに誕生していたことになる。民衆は文字を持たない。口承や古謡として残る。単純、素朴である。民衆の演じる舞台は自然を舞台とする。

 各地のアサギアシビに、すでに、民衆の演劇は営まれていたか。
 たとえば、沖縄の祝いで踊られる「かじゃで風」は、わが先祖奥間の鍛冶屋の読んだ歌だという。民衆が謡った歌が、恩納節はじめ、古典琉歌である。日本の短歌は貴族階級の歌が主流である。
「国頭サバクイ」をからめて舞台演劇として再生するのもいいかもしれない。クエーナはじめ、民衆の土俗文化に人間の豊かさがある。
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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