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マチブイマチブイーゲー米国防長官が示す単純な道

日米安保条約11条を鮮明に
 鳩山ーゲーツ会談が示唆するもの
  ゲーツの白紙論
 昨日、8・19県民集会の要請団が上京。21日鳩山ーゲーツ会談。琉球新報一面によればゲーツの発言が面白い。
   「普天間飛行場の移転が実現されなければ在沖海兵隊グアム移転や嘉手納基地以南基地返     還なども白紙に戻るとし、日米ロード・マップ(工程表)のの見直しは非生産的」
 
 米国も再編をロード・マップに限定していることが見える。また、米国がi異議を唱えれば「白紙」になる。日本が異議唱えれば「白紙」でもある。政権合意は政権でなくせるものだ。
 従属と属国の固定概念で、平野は「重い」を使用しているが、ゲーツの白紙論にみられるように政権間では条約より軽い。日米安保も1年でなくせるのだ。 
 運動体として、日米安保11条を鮮明にする必要がある。

IMG_0001_20091022121715.jpg

 琉球新報
 沖縄タイムス
  社説あり
 星空に蛍が舞う川4
由美子ちゃん事件とミツル少年

 運動場は松も向こうが田んぼ、森を削ってトロッコで底沼のような田んぼに流し込んだ。ブルドーザーのない時代ですか、田んぼにワラビ、学校や住宅に使用する大量の「肥やし」をしいた。(1950年ごろか、用地園から酔う学校1年か定かでない。肝試しあったと思う。
 おかげで、運動場は馬の放牧、草刈り場になった。馬の糞を堆肥として拾う人も出た。コロッコはレールがついている。当時は強烈な早い乗り物である。これもも試しの遊びの場であった。森がらスピードを加速する恐怖に1年生が絶えた。命をかけたような遊びであった。

私たちの小学校時代に最も衝撃的な事件は、1955年9月、由美子ちゃん事件が起こった。担任の知花芳子先生の「由美子ちゃんの唇はキリリとしまっていた」の言葉は心の襞にいつまでも刻まれ、ミツルという少年を勇気の手本として語った。マンガには「イガグリ君」、「赤胴鈴ノ助」「鉄腕アトム」など正義と勇気の少年物語が多かった。
 1955年ごろから親子ラジオは普及する。

 その頃の父は山から木材や薪を切り出していましたが、沖縄に輸入材や石油コンロが入ってくるようになると、炭焼きを生業にするようになりました。薪の木材を切り、斧で割り竹の輪に入れ一束の商品を作るのは子どもの仕事で、一斧でコロと割れると一人前となります。当時の山の道は馬のソリの幅で、今は川のように残っています。子どもも山に行くと必ず薪を担いできます。私の卒業11期生、以前の生徒は「山入り」で学校の資材を運び、中南部に売る薪を運んだ。
 都会の子供たちは薪などにかカラキ(シナモン)が入ってないか、たかったようだ、山カメも同様にペットして運ばれた。

DSC00168.jpg
 (写真、奥間ッ平野、左に比地川、右の米軍奥間ビーチ、中央にJALリゾート、本部半島が浮かぶ)
 
 トゥ・バイ・ホーと
  与那覇岳への道のり
 
沖縄戦で沖縄は、中南部は「石灰岩のむき出し」になった。豚も牛も、そして馬も消えた。沖縄の家屋の復興に欠かせないのが、アメリカのトウ・バイ・ホーは材木の代名詞になっていた。
 奥間の里から与那覇岳、阿波部落に行くには人間と馬が歩ける道しかなかった。私の記憶には、与那覇岳の麓にある親子で開墾した畑がありますが、車や馬車か通る道ができたのが1959年である。
 私の幼稚園は村の東にある金剛山という御願所、野外の幼稚園であった。コンクリートの階段を上る。その淵を滑り台にして遊んでいたからズボンは穴があいてお尻が丸見えでした。
 幼稚園児でも山奥に行くのは普通のことでした。山道にはそれぞれの名称があって景観のいい場所には大きな松が日陰を作っていた。琉球処分で首里士族が開墾した場所を本部ヤー(住宅)、藍染めや樟脳を取り出す開墾地をユルジと言い、のちに、農業試験場ができ、今も、畑の痕跡、藍染め、樟脳の樹液のクスノキが森を成し、住宅跡が残っていて、そこから与那覇岳に登る。戦前の小学校生はここから学校に通った。

DSC00186_20091022132503.jpg
 (ユルジの楠造林、藍染めなどの遺跡が残る)
 
  数百年の
   人間と猪の闘い

本部ヤーからマイヌギバンタ(尻が抜ける坂道)、その頂上はハチンゾウ(竹を植え猪垣根)で平坦になり、この周辺は北風の影響受けてトリモチの木が群生、猪の落とし穴がいくつもあって、ヤマシシ(猪)穴はシダ・ワラビに覆い隠れていた。トリモチの木を探すのには穴に落ちる危険が付きまとった。
 沖縄の農業の歴史は人間と猪との闘いであった。
 
 大宜見村は石灰岩の山、塩屋湾の奥、大保川から登るとキンナーという山谷の集落があって、有名なの沖縄で1番古い桜と言われてこの時期観光客が訪れるけれども普段は人影が見えない。

DSC00178.jpg

 石灰岩を城壁のように積んだ伊の猪垣根は同村の来た田嘉里集落まで続き20キロは連なっているか。「沖縄の万里の長城」を成している。福地ダムの礎石もこの一帯の石灰岩である。
 
ハチンゾウとは里山と山との境界、つまり、端という意であると思はれる。
 沖縄の森を見るとき、海岸から見える範囲は棚畑と思えばいい。山の頂上まで空に畑が広がっていた。イモ、キャサバ(タビオカ)、チンヌク(サトイモ)、マーヤムン、野菜、小麦、ソラマメなどなど味噌も自給自足と見ること。
 里山には将来のために木材としてイジュ、イヌマキ、センダン(タンス用)などの造林があった。
 
 今日、この猪垣根の周辺に猪の飼育、イノブタの飼育がなされ、ブランド商品を目指している。
  竹の猪垣根とイノブタの親子DSC00166.jpg
人海戦術と
  学校

とりモチの皮をはいで石で突いてトリモチの樹液を出す。メジロをとって竹かごにいくつも飼っていましたが、生きることはなかった。捕るのが遊びであった。
 ジヤックワ(写真は後に)という峠に大きな松が椎の木とともに広い休憩所、ここから、シガマーバンタという長い坂を下ると奥間川は平坦の川になり、ウッカーと称していた。現在の琉球大学の山小屋までは川を歩き、急な坂を上りユルジに付きます。この周辺の山が後に述べる炭焼の場所です。今は、車で4kmの道を車で上ると大国林道の与那覇岳入口になっています。
 幼い記憶にウッカーに製材所があった。なぜ、この山奥の川に戦後製材所ができたか。1950年代に製材業をしていたジンカヤー(お金を借りる)という屋号の親川さんを訪ねた。
   「どうして、不便なウッカーに製材所ができたのですか」
   「トウ・バイ・ホー」と答えた。
アメリカの材木の規格であること理解しているのですが、 それでも、呑み込めなかった。戦後の学校はすべて馬小屋でした。
 ウッカーの製材には、沖縄戦後教育の原点が秘められていた。給料がない時代、50年代中期まで教師の給料みじめで煙草代にもならず、米軍基地が最高の職場であった。日本の角材の規格は長く重い、トウ・バイ・フォーはその半分、小学校高学年でも担げる。丸い木を里に運ぶには大人でも1日1本、シガマーバンタ登るには体を痛めるほどきつい。小学校、中学生が運んだ。それが、先生の給料や学校の運営費となった。
 それぞれの学校には学校の田んぼがあった。小学高学年の人力(山入りと称した)、今、思い出せばトゥ・バイ・フォー、薪、学校田の収穫は先生の給料、学校運営費の1部になっていたのである。沖縄戦後教育のスタートの姿を見ることができる。
 
 トゥ・バイ・フォーー小学校生でも運べる。学校ぐるみの総動員で山から運べば楽なもので、終戦直後の教師の給料になった。確か「山入り」という言葉があった。トウ・バイ・フォーや薪はGMC(米軍の軍用トラック払下げ)に満載され砂埃を上げて中南部に運ばれて行った。
 (続く)
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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