毎日・毎日が面白い新聞・テレビ
「権力弄び内閣」が日本の茶の間話題に 「外相県外検証せずー辺野古沖案も示唆」(タイムス1面)
「外相合意白紙難しいー県外検証しておらず」(新報1面)
嘉手納宮城町長談話と
大西談話
「『急きゃならん』と言うが、急いでいるのは宜野湾市長でも市民でもない。むしろ国でしょう。あな
た は市長を呼んで本気になってこの問題を考えるべきだ。」(嘉手納町長2面)
「県内移設にこだわった自公政権と変わらない。普天間移設をめぐるドタバタで、沖縄の基地問題が、全国の注目を集めるきっ掛けになったことだけが新政権の功績」(大西28面)
宮城町長が「あなた」と岡田を呼んでいる。琉球語で「ヤー」と言う。これは相手を見下したとき使う。尊敬するとき「ヤー」は「ウンジュ」となる。
宮城町長は「急いでいるのは政府」
普天間の閉鎖、先だ。「宜野湾にいらないものは、辺野古にもいらない、日本のどこにもいらない」、この心を行政の長の言葉で言っている。
岡田は鈍感だ。政権全体が鈍化に動いている。
島袋名護市長に何を話したか。御土産は何であったか。蒔き餌は。岡田は外交能力ないとみた。国防省日本部長の役割を果たし、「知日派」(キャンベル、ローレンス)の操り人形。シュワブでは「知日派」のグリーン総領事が御目付役でちゃんと監視。面白い光景ではないか。
民主党県連があわてふためいている。喜納代表はもともと、沖縄独立論的思考していたので、琉球独立党で、民主党よ さようなら、したら。
(10:7分)
沖縄県民は
人類史の全ての抵抗の権利を付与された。岡田の目的
昨日の日記で岡田・石破の来沖は「島袋市長激励」と書いた。11時に岡田は「嘉手納精査してない」と記者会見で述べたようで、沖縄タイムスから取材電話を受けた。
「辺野古ありきの来沖」
「自分で語っている」
「島袋との会談がその証しだ」
「想定内」
「普天間・辺野古を国民に知らせてありがたいことだ」
と答えた。(11月16日「宝の海」参照)
オバマ・鳩山会談が
沖縄県民に付与した権利
嘉手納統合案、永遠にあり得ない夢想である。1996年SACO検討で試し済みだ。この年9月、私は国防省・国務省要請を横田爆音訴訟団とともに行っている。
私が持っていた写真は読谷村の子どもたちがプラカードを持って嘉手納反対で立ち上がっている写真である。
私は言った。
「代表権なくして課税なし、憲法も安保条約も沖縄県民は参加させられなかった。あなた方の独立戦争の権利を有する」
「あなた方のような武器による野蛮な民ではないから、あなた方の兵士のあらゆる暴力にも理性と道徳で、あなた方の非道に立ち向かっている」
憲法15条 請願権を超えたき大が生み出した自然法の諸権利を沖縄県民は獲得する。国家に対する不服従、革命権(暴力革命、平和革命権)、権力の弄びほど、人間の尊厳を踏みにじる。
どんな事件が起こっても容認はしないが、擁護する。
鳩山連立政権
「非理法権」をも逸脱した暴力
昨日の日記にオジー(阿波根昌鴻)の日米政府の沖縄支配を「非理法権天」とした。
岡田の態度はそれをはるかに超える、権力の亡者の権力の誇示である。自公政治は少なくとも理性と論理があった。鳩山政権には理性のかけらも見えない。
私は平和の文化(紛争の平和的解決・非暴力)を貫けど、民主連立政権の理性と法のない論理は、暴力的行為を誘発することによって沖縄を支配する権力でもてあそぶ、理性が通用しない謀略をとみる。
私は、米軍及び軍属の行為に対して突発的に発生する県民の行為を危惧する。それでも、その行為を肯定する。1970年のコザ騒動(人民の抵抗)などを、誘発することで、鳩山政権は強権的(国家の諸暴力装置)で沖縄を日米軍事植民地を深化(オバマ・鳩山会談)を狙っていると見る。
自公政権は理性的論理がまだあった。民主党は国民の感情による権力の遊びに過ぎない。このことがいかに日本の不幸を作るのか。鳩山も岡田もオバマもわからないようだ。
1990年代から普天間にかかわって、これほど普天間が国民の日常用語になった。
私にとっての出発は宜野湾市市政要覧(1992年)の高校生都市構想である。
民主党の「非理法権」を超えた権力の弄びに乗ってはいけない。ワジワジーを理性で。
1970年のコザ騒動を誘発するか。
民主党連立政権は暴力誘発政権である。
週刊誌の儲け方
民主連立政権の「あらさがし」の中で、週刊ゲンダイが面白い。このような売り出しもあるのだと思う。週刊金曜日のように低俗ではないように見えるが・・・・・・。 (17日 0時10分)
(続きー星空ーピストル) ギンヤンマの飛び交う川を奪われて ピストル
私の家は奥間小学校と隣りあわせで、仏草華の垣根を植えてあって、隙間から登校していました。小学校は、もとは村のアサギで、神所はアサギの一部であった私の屋敷に移され、神の道が裏校門にもなっていたこともあって、庭はパッチン、マル玉、ゲッチョウなどの遊びの場でした。 小学校6年、その日も、泳ぎや釣り場を奪われた悪童どもが庭に集まり、地面に比地川の地図を書き米軍を困らす作戦計画をたてています。

(奥間田んぼ、比地川、塩田が見える風景、左にサバニは2艘浮かび、塩田が広がる。中央に広い池が見え水門も見える)
半地上原から通学するあだ名サルとミルク(顔が面のミルクのように広い)は、シンメーナベの馬の餌芋を食べていて、鶏が突いている。一〇人近くの悪童たちの作戦計画は、米軍の取水場で泳ぐ、米兵が来たらホテアオイの中に二~三人隠れ、全員対岸の土手に上がりからかう。あらかじめ土手の草、ネズミノオの穂などで罠を作れるだけつくり、黄金に実り始めた畦道にも罠を作る。我が家の馬の食べる芋は、戦の前の腹ごしらえで減ってしまったが、我が家のイモはクラスメーとのオヤツみたいなもので、母はイモを4つに切り煮るのですが、水を含んだイモも、当時、 いつものことでした。

(卒業写真、後右2番目が大西、)
取水場に集結すると作戦計画は順調に進み、ギンヤンマが水面にお尻をはねている川に、全員服のまま飛び込み泳ぎだす。半時間ほどして、VOAのある鏡地のほうから埃を舞い上がらせてジープが疾走してきて、二人の米兵が「ノースイミング」と大きな声を張り上げると、悪童どもは「アイム ソーリー」と頭を下げて、対岸に上がり始めるのでした。
私の役割はホテアオイに隠れる。ホテアオイが揺れるとバレルので、波も起こしてはならない。目の前にはホテアオイの紫の花が房となって咲いている。花の房の奥におしべとめしべの黄色い花粉を食べにテントウ虫が夏の太陽を避けるように休んでいる。水中の足にはカニが乗って遊びだした。
米兵たちは悪童どもを褒めながらジープに戻り始めたところで、ホテアオイに隠れていた第二陣が泳ぎだし「ヘイ、パンパン、ダイスキ」「スケベー、ヘイタイサンー」など、ありったけの罵声を上げ泳ぎ回り、上流の対岸にたどり着き、ジャンプ繰り返してふざける。米兵は怒り出し堰を渡ろうとするが、あらかじめ泥が積まれていて身動きが取れない。米兵たちは下流の比地橋を渡り全力で悪童どもを追いかけ出した。罠や縄(自分たちでワラで編む)で思うように走れないので、ますます怒りの声が大きくなる。悪童どもはそれぞれのあぜ道で「カモン、カモン、クレイジーボーイ」と叫ぶ、この地帯の田は湿地帯で稲の刈りいれ期も水が満水の棚田、米兵は土手からあぜ道に飛び降りるやいなや水田に落ち、頭から体中泥人形になってしまった。
突然、「パーん」と、ピストルの銃声がなった。
この事態は、悪童たちの作戦計画には描かれていませんでした。悪童たちは湧水から段々畑、チンオーガミの崖を、半地上原に一目散に駆け登り、サルの家にたどり着いた。
子どもたちにとって山は五月の家庭訪問のころはヤマモモ、夏の終わりにはバンシルーやヤマブドウ狩りなど庭のようなものであって、山の密林を逃げることは遊びの世界であった。しかし、悪童どもに新しい恐怖を呼び覚ました。
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