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緊急連絡
 違法アセス公判 12月25日 10時
  アセス監視団の連絡にミスがありました


アセスとの闘い(私的)回顧(1)
 (旧宝の海ブログ毎日日記)を書き続けて
 
 経過
  1997年12月21、名護市民投票海上基地拒否ー原点
  1999年1226日、岸本建夫市長軍民共用空港「7つの受け入れ状件」で「苦渋の選択」
  2000年元日  暁の辺野古浜集会(昨日ブログ)
  2002年    沖縄防衛局「3工法8案」「護岸構造検討」を出す。ジュゴン1号購入
  2003年4月   土曜浜集会、カヌー訓練開始、船舶購入始まる
  2003年9月23日 「沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団」結成
     11月17日 沖縄防衛局「公共用財産使用協議書」沖縄県に提出ー法的期限1月
  2004年3月31日 定年退職
  2004年4月18日 泡瀬干潟人文字集会、事前調査正確情報
  20004年4月19日 暁の攻防、辺野古漁港作業ヤード阻止、座り込み開始
     8月13日 沖縄国際大学にヘリ墜落
     9月   那覇防衛施設局キャンプシュワブからボーリング櫓建設
   9月21日 「宝の海」を毎日日記と開始

 IMG_20091223110958.jpg
(このブログは見ることできません。再開6月)
 2005年9月2日  ボーリング櫓撤去
    軍民共用空港実質的に頓挫
  2005年10月 『愚直Ⅰー辺野古からの問いー沖縄非暴力の心』をまとめる。

IMG_0001_20091223111014.jpg
  
 何を大切にしたか
   1、学習を重視
     水産資源調査に関する学習、土曜集会、アセス監視団調査研究の共有
   2、共闘、共同の広がり
   3、交渉の重視、テント村交渉だけでも32回
   4、非暴力と屈服なき継続性ー辺野古行動の広がり
   5、毎日書き続け、発信
先人たちの残した遺産(私の視点)
   1、平和の文化(紛争の平和的解決と非暴力
   2、生物多様性の世界
       (復帰闘争碑の警鐘)
 「宝の海」開設は
   マスコミ報道の限界に挑戦
2010年の県内・国内・国際的な激動が予想される中で私的総括も大事だと思っている。辺野古弾薬庫への核持ち込み、クリントンの駐米大使呼び出しに拠る再恫喝、マスコミの「日米同盟絶対化」「日米関係危機論」などなどは、米国政府の強行政策を煽る。
 2010年は、国家権力、マスメディアが総力を挙げて沖縄に安保の重要な基地を押し付け、負担平等論などで挑んでくる。普天間・辺野古の問題が「茶の間」の問題になって来たが、茶の間からの総反撃も視野に入れているであろう。
 この強権、秘密主義的アセスに、矛盾が満ちていて、再度、日米政府を追い込むことができる。決定的勝利を目指さないといけない。


 (続きーヤンメームン名護市長選挙情報(1)

辺野古弾薬庫も核持ち込み対象
資料
核密約公表「真実残すことが大事」…佐藤元通産相
読売新聞 12月23日03時00分

 沖縄返還交渉をめぐる有事の際の核持ち込みに関する日米間の「密約」文書は、佐藤栄作首相(当時)の次男で元通産相の佐藤信二氏(77)が30年来悩んで保管してきたものだった。

 公表に踏み切った背景には、政権交代によって、民主党が密約の存在の検証に本格的に動き始めたことがあった。

 信二氏によると、1975年に佐藤元首相が死去して、親しかった新聞記者の一人に「形見分け」として元首相が生前、愛用していた机を譲ることになり、中身を整理するため引き出しを開けたところ出てきた。机は私邸(東京・代沢)の書斎にあった。発見時、信二氏は参院議員になったばかり。元首相は密約の存在を明かしていなかったが、引き出しから出てきた文書の持つ意味は政治家として十分理解した。

 その後、80年代に入り、佐藤家に一人の学者が訪ねてきた。返還交渉で元首相の密使を務めたとされる若泉敬・京都産業大教授だった。若泉氏は「奥様(元首相の寛子夫人)に会いに来た。元首相の日記を見せてほしい。公開されると大変なことになる」と切り出したため、佐藤家は日記を見せることにしたという。

 日記には、若泉氏の名前が所々出てくるものの、密約を巡る若泉氏との具体的なやりとりの記述はなかった。若泉氏はその後、94年になって返還交渉の舞台裏を描いた「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋)を著し、密約の存在を明らかにした。

 密約をめぐる政治的な重みを認識していた信二氏は、本来、その時に文書の存在を明らかにすべきだと思ったはずだ。しかし、公表は思いとどまった。外務省が密約の存在を一貫して否定していたからだ。元首相が「非核三原則」でノーベル平和賞(74年)を受賞したという事実も信二氏をためらわせたようだ。

 佐藤氏が今回、文書をあえて公表したのは、ここ数年、外務省の元局長らが相次いで日米間の核密約の存在を明らかにしたことが大きい。民主党政権の発足も決断を後押しした。

 文書の公表を決断したことについて、佐藤氏はこう語った。

 「文書にはすでに政治的な意味はなく、公表によって現在の日米安保体制が大きな影響を受けることはないと思う。おやじがどう考えたかわからないが、歴史に真実を残すことが大事だと思う」
     
  
ヤンメームン名護市長選挙情報(1)
 
持続・継続は力
 冬に咲くガニラン
 以前はビラをまくのに、1日あれば充分であった。
しかし、今は、ノルマを決めて毎日少しずつ配っている。一気にできるからと伸ばしのばししていたころより確実に進んでいる。
 ビラをゆったり、冬の陽光を受けながら庭を眺めると、冬の花が訪問先の庭に咲いている。目を引くのがガニラン、白、ピンク、紫、赤と色はバライティーである。
 家に戻ると玄関に深紅の花が咲いている。

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 頑張る統一連
  稲嶺ポスター張り出し行動
 名護市の法人税を見ると95年4億4000万、現在4億3000万と減退している。基地収入の財政に攻める割合は7%から24・5パーセントになり基地依存が見える。島田懇、振興策などであろう。
 市債残高も171億6000万から235億2000万に膨れ上がっている。
 基地に依存すると麻薬的状況を生み出す。
 多くの仲間が、稲嶺ススムポスター張り出しで頑張った。
 昼食のカレーは絶妙にウマい。

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  (23日、統一連事務所)

市民投票13年
  市長選挙優先
 本来市民投票記念日は、それなりの行事をしてきた。今年は1月に市民投票を控えており、実践的に市民が動いている中、学習的意味合いを持たし、23日にした。ビラ配りなど行い、学習会を組織した。

 明日、報告する。
 さまざまな動きをしている。
 名護の12月は忙しい。1月24日まで走らず歩く。

 
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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