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鎮魂の6月23日ー敗残兵はどのように住民を虐殺したか



鎮魂の6月23日
  テント村
カン首相「全国民にかわってお詫び」と述べたようだ。違うであろう。お詫びするのは込む民ではなくカン首相で、日米合意撤回することが「お詫び」であろう
 辺野古の海上では海兵隊のゴムボート訓練が行われている。テント村住民も摩文仁の平和集会へ出かけた。


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 浦添市労働組合
  平和学習

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ジュゴン1000枚
  素敵な訪問です

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 野外授業
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 地元の中学生
 テント村で遊びます

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(続きー敗残兵はどのように住民を虐殺したか)
敗残兵はどのように住民を殺したか
   高校教師最後の授業プレゼンテイションより

「仲村渠仁王虐殺の地」碑を訪ねて
                         
  出会い
今から二十七年前(一九七一年)も晩秋。仲村渠美代が営む、浦添市内間の小さな食堂に六十歳頃の同世代の島袋ツルが、いつものようにニンジンなどの野菜を売りにきた。お客もいなくなった昼三時、食器を洗っていた美代はツルに「茶飲りかんなー」と初めて声をかけた。
小売での長い取り引き相手だが、二人の間には小売の義務的な言葉しかなかった。美代とツルは、お茶を飲みながら世間話をしていたが、沖縄の人の会話は戦さ世の話になるのが常である。ツルは人目がないことを確かめて、自分の体の奥に語るようにその顔は沈痛にゆがみ「ワンヨー。ハッサミヨー ヤマト兵隊がヨー…」といいかけて、狭い食堂を見渡し、「ハキサミヨー。ハキサミヨー、ムルフラン……」と絶句した。
美代は咄嗟にツルに身を投げ出し、「エーウンズ(彼女)、マーティガ(どこでか)マーティガ…」と繰り返すばかりで、ツルが驚き、言葉にならない声で「ヤンバル、ヤンバル、渡野喜屋…」美代とツルは手をしっかりと握り合い、涙が洪水のようにあふれている顔を「あの日」の闇夜のようになで合うのであった。それは渡野喜屋で殺された肉親と避難民たちの霊が、「黙ってはダメー。殺された証言を…」と、二人を結びつける運命的な出会いであった。
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犯人を追え
一九七一年(昭和四十六年)、翌年五月十五日の沖縄返還に向けて激動の年で、自衛隊がまず真っ先に配備され始めていた。私はこの年『中央公論七月号』に「“日本軍”の沖縄進駐」(三十枚)を書き、沖縄の高校生たちの「自衛隊の来沖を否定したい」「われらを苦しめるためにやってくる」などの声を紹介している。
美代は体のすべてにしまっていた、誰もが信じられない二十七年前に自分に起こった出来事を語る時と思った。「子供たちが、また友軍に殺される。ああー、また…」と。
美代は子供らに手紙も書いたことがないが、鉛筆を取り、自分の戦争体験を便箋十枚に書き綴って、琉球放送に送った。美代は浦添市屋富祖に土地を買い家を建てたばかりで、その下隣に、やがて、私の伴侶となる名護初子が住んでいた。マスコミ関係者などが仲村渠家を訪ねる状況を義父母は「クヌヤーヌーナトーガー」と語りあったという。
一九四五年(昭和二十年)五月十二日、その前日米十軍司令官バークナー中将は沖縄全線にわたって総攻撃を命じ、沖縄守備軍が爆撃箱を抱きかかえて、米戦車に体当たりなどする肉弾戦が展開された「シュガーローフ」の攻防戦が始まった日である。美代とツルら避難民には知る術を知らない。
未明三時、天皇の軍隊(字土部隊)の敗残兵は、渡野喜屋部落の避難民を襲った。
仲村渠美代と島袋ツルは食堂で、奇跡的に助かった仲間であることを知るのである。しかし、ツルはマスコミを通じて美代が証言していることを知らなかったが、北部戦線における天皇の軍隊の素顔が明らかにされていくのであった。
一九八〇年(昭和五十五年)日本テレビのディレクター森口裕(四十三才)は、大宜味村喜如嘉の敗残兵に虐殺された知名巡査殺害事件を追い求め、仲村渠仁王「スパイ容疑」斬首事件、渡野喜屋避難民虐殺事件(死者約四十~七十名で執筆者によって生存者も含めて統一されていないが、仲村渠美代の筆者に対し約七十名の説明は、十一年前から変わらない。)の「今日正犯」の「犯人」の一人として戦後、都立上野高校などの校長を歴任し、A芸術大学教授森杉多であることをつきとめた。
この状況については、後に引用するが、一九八〇年十月一五日~十八日の「琉球新報」が詳しい。宇土部隊敗残兵の住民虐殺が暴かれるなか、森兵長は、一九七五年(昭和五十年)十月二十六日『空白の沖縄戦記=幻の沖縄奪還=くり舟挺身隊』を昭和出版から出す。
森口ディレクターのドキュメント八〇『戦争を知っているか -芭蕉布を織る村にて-』
はOTV(沖縄テレビ)で九月一九日放送される。
なぜ、いま、集団虐殺にこだわるのか

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一九六五年(昭和四十年)、宇土部隊(七〇七一部隊)生存者は戦友会を結成、名護町(現名護市)名護城山頂絶景の地に「球七〇七一部隊、『和球の碑』」を建立し、生存者名簿を作成し、四十九年、七月二十七日はじめ、以前からしばしば護国神社(各県もちまわり)にあつまっている。その前の四十五年十一月、元鉄血勤皇隊の仲兼久正時(現長山)が上野高校校長室を訪ねている。戦友会は昭和五十年十月十一日、「和球の碑」前で終戦三十年の五県(沖縄、鹿児島、宮崎、熊本、大分)の合同慰霊祭を行った。この慰霊祭に元森兵長が参加したかは定かでない。
森杉多教授が渡野喜屋事件の「共同正犯」の森兵長であることが判明するのが一九八〇年七月であり、新聞記事は「旧日本軍の“懺悔の旅”」となったとし、「十日沖縄入りした森さんは空港からそのままの足で」「仲村渠さん虐殺の現場に直行、二日間に渡って現場探しをした」と書いている。
私は、日頃、隣近所で親しい仲村渠家の名誉とスパイ部落として殺された約七十人の死者の無念を事実をもって証明し、記録として残したい。
しかも、現在、国の政策に異議を述べるものに対し、政府首脳が「人の道に反する」と堂々と沖縄県民に投げかけている。政府のことばですから、「国民の道に反する」と同意語である。

虐殺の碑を建てる
一九八〇年十月十三日、元日本兵森杉多は浦添市屋富祖の中村渠家を訪ねた。美代は複雑な思いであった。夫元康が生きていたら玄関で半殺しにしていただろうと私に述懐する。
すでに、八月一八日の琉球新報には、ツルの「日本軍は食料が欲しかった」(八月十八日)や、虐殺の概要を報じていて、「『軍隊の虐殺行為』を『同じ部隊の一人として心からおわびします』と畳に頭をつけるように謝罪」を繰り返しているが、個人の謝罪はなく、理由も明らかにさていない。理由は『空白の沖縄戦記』の中に書かれているのである。それ以前から、新聞には「仲村渠さん、あきらめて許したら」などの声が載ったこともあって、森杉多に線香を渡した。
十月十五日、美代は、森の案内で遺骨の発掘に出発した。兄弟全員が参加し、多くの知人が協力した。大保の山から岩山の険しい慶佐次川を下った。琉球新報には次の記事がある。
この日は美代さんには実兄の兼城賢成さん(六八)=沖縄市宇山里六九三、商業=、妹婿・真栄城玄一さん(六二)=浦添市字前田九七六、浦添市役所水道課=、おいの兼城賢信さん(三三)=那覇市首里儀保一ノ三〇、桃原農園=、玄一さんの長男・玄勇さん(三一)=浦添市字前田、翁長シート製作所=、知人の末吉幸太郎さん(五〇)=浦添市字城間二一四七、商業=ら六人も同行した。途中、森は、コンクリートの敷かれた場を示し、ここが宇土武彦大佐の「司令室」だと教えられた。山深い密林の中にあった。
台風一九号の嵐の中、仲村渠一族は必死に三日間、ツルハシ、クワ、鉄棒で掘るも三人の遺骨は発見できなかった。美代は「故仲村渠仁王虐殺の地… 昭和二十年5月十二日、日本兵に斬首される」の標柱を建て、仁王さんに「また来るから」と、生前優しかった仁王さんに心に誓った。
仲村渠美代さんと私の家とは親しいおつき合いをしている。私は日頃から、「虐殺の地」碑と渡野喜屋(現白浜)の現場を共に訪ねたいと希望を述べていた。
一九九八年八月十三日、私は、その機会を得た。その日、兵庫県尼崎市に住む長男中村元一が孫(元一の長男)を連れ、五十三年前、母美代から三度目の生命をもらった渡野喜屋の地と祖父仁王の眠る地を、初めて訪れることになった。長男の元一、長兄賢成、弟嫁兼城千代、おいの元勇に、孫(仁)、私を加えて七人である。
ボンゴをレンタルすることになっていたが、山道のことゆえ、ヤンバルの山道で使用されている私の弟のボンゴを借りて私が運転することにした

血の川の肉塊
五月十二日未明三時、深い森と段段畑に囲まれた塩屋湾は泉のように静かで、波の音が聞こえる深い闇夜であった。約八十人の避難民は、約十人の敗残兵の銃剣でたたき起こされ、手を縛られ、銃剣で背腰をさされ、村の広場に四列に並べられた。男たちはどこに連行されたか、老人、子ども、女だけであった。
美代らが仮住まいしていた広場を隔てた向こうの家から、読谷村の老人の、「アンマーヨー。アンマーヨー。ワンネー、ワンネー」
と、泣き叫びが聞こえて、力なく声がしぼんでゆくのを…
美代は敗残兵隊長の東郷少尉の発す
「君様らは、敵の捕虜になって、それでも日本人か……」を
怒号の中で聞いていた。
その時、敗残兵の集団が「一、二…」
の号令の闇の中に白い煙がいくつも流れた。
「あぶない!ふせろ!」
と、美代は叫ぶと反射的に、泰子と元一にチャンチャンコをかけ、身体を二人の体にかぶせた。頭の皮と髪が吹き飛んだ。
海辺の村の深い闇の中、かすかなうめき声で美代は目が覚めた。泰子と元一の心臓の自分の息づかいと一つになって高鳴っていた。
「おじいー、おばあー」と声を出した。
「美代ー、美代ー」と気遣いのように叫んでいる。
義弟が「ネーネー。お父ー」と血だらけの体で祖父母の体に倒れた。泣き虫の泰子が泣いた。
「マタンフィンドー! 泣カンケー、泰子ー」と美代は恐怖に体ふるわせて、泰子を抱きしめ頭を幾度もさすっていた。
美代は、「早く朝がーおてんとう様、早く早く…」と祈りながら、生暖かく川のように流れる血の中の肉塊の場を去って、部落の入口に家族と共に移った。その光景は身も体も石の彫刻のようになって、空虚に空を向いていた。
夜明けとともに、米兵がジープに乗ってやってきた。二世の米兵は体中血に染まって彫刻化した一団の異様な姿を見て、「どうしたの?」と、聞いた。美代は声もでず広場を指さした。
しばらくして、米兵の2世がやってきて、読谷村の老人が殺された家に突き刺さった手榴弾の破片を見せ「日本兵が、どうして」と聞くが、美代には答えられるはずもなく、言葉も失っていた。
どれだけの時間がたったか、応援に来た米兵たちは機械的に死体と肉片を片づけ始めた。
美代は動こうとしない体に力をこめ、兄嫁と義弟を捜した。兄嫁の足はなかった。義弟の胸にはいくつも破片が突き刺さっていた。美代は残った全エネルギーを絞り出し、海岸に遺体を運び仮埋葬した。米兵からもらった食糧、大切にしていたイモの皮もすべて消えていた。傷ついた少年二人は収容所の病院で死んだ。
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スパイ虐殺
  さて、森繁太『空白の沖縄戦』の中のスパイ虐殺の記述を読んでみよう。
「頭目」(中村渠仁王)は頭を下げ、下げた頭をしばらくそのままにしていた。やがて「頭目」の大きな体がぶるぶると震え始めた。震えながら頭を上げた「頭目」は、目を塩屋部落の方角と思われる空に向けた。私もその方を見た。青白い午前の空と、黄金色に輝く楠木林の豊かな鞘が眼に映った。私は、「女の人や子供たちは大丈夫ですよ。何も罪はないのだから…」と呟いた。「頭目」は、「いいえ…、もう仕方はありません。林道をこちらへ歩いている途中で、大きな爆発の音が、何発もしました…。」と消えるようにつぶやいて、がくりと肩を落とした。
「ワイシャツの男」はすでに「頭目」が「処刑」されて転がっている「墓穴」の前に端座させられた。川岸の大きな石にしゃがみこんで薄暗い「刑場」の方をのぞくと、顔面蒼白の曹長が、日本刀を頭上に振り上げ、両足を大の字に踏ん張って、ふるえる声で言った。「おまえは、大日本帝国の軍人を敵に売っていい、と思うか」「ワイシャツの男」は答えなかった。日本刀が斜めに切り落とされた。あんな具合に、何か問いかけながらやるならわしがあるのか、あの問いかけは相手と自分の恐怖感と逡巡を切断するためか、と私は思った。「森兵長か、下野上等兵がいい」さっきの曹長が走り出てきて、私と下野を交互に見ながら、やれ、と言った。めまいを覚えながら私は言った。「病人にやれと言うのか」「病気でなかったらやるか」「おれはだめだ」今まで見たことのない恐ろしい表情で私を睨みつけた彼は、「お前がやるんだ。お前が病気なら、お前の銃がやるんだ」と叫んで、私の銃をひったくるようにして取り上げ、林に入っていった。
彼は曹長の真似をして、「若い男」に問いかけた。「帝国陸軍の上等兵が、日本軍人を敵に、アメリカに売り渡していいか」と問いかけながら、私の銃剣が刺突の構えを整えた。「若い男」は、「許してください、隊長さま。日本陸軍の為、どんなことでも、どんなことでもします。だから隊長さま、許して…」その瞬間、私の銃剣は「若い男」の心臓を貫いた。
  拙著『仲村渠仁王虐殺の碑を訪ねて』(一九九八年11月)から抜粋。
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プロフィール

teruo024

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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