マスメデイアに負けない
辺野古の日々の蓄積、 07年5月18日、海上自衛艦が辺野古違法事前調査に投入された。昨日の日経への手紙の指摘が現実になった。この日、金城祐治(命を守る会代表)が、逝った日でもあった。喪服を付けて平和丸で海に出た。汀間漁港で保安庁が妨害行為にでた。その朝、汀間の竜神の宮上空から辺野古の空に竜の雲が辺野古まで伸びた。保安庁の職員も初めて見る雲であると言った。
保安庁巡視艇と連絡取るよう申し入れ、平和丸出港、保安庁職員退いた。止めても出るつもりであった。大型巡視艇3隻を巡回して、沖縄的祈りをささげ、祐治さんの安らぎ、必ず勝つ、勝つまで祐治さんとの再会を拒否すると、平和新聞に追悼文を書いている。
平和丸は闘いの船、調査船、学習船として日々を送っている。今年は青年・学生が辺野古に集いだした。マスメデイアが日米同盟の先導役となる中で、再、再度「辺野古見直し」、もはや、小手先通用しない国家の進路の根幹の問題になってきた。
社民党、私の予想したように環境大臣要求してきた。日米同盟の「鍵」辺野古、すんなりと、日米同盟派認めるか。環境大臣は辺野古の行末に行政的に第1の政治判断の時。
私は平和委員会に身を置く、60年の歴史を持つ個人加盟の平和NGO、辺野古のを国際化するために英語のできない私は、平和委員会の通訳を通じて国際会議に参加している。

お花のような
サンゴの仲間

ブドウのような
サンゴの仲間

海のお皿
でも、サンゴなのだ
歴史を作る(3)-辺野古のサンゴとともに
世界平和フォーラム(バンクーバー)報告 URLができないので添付する。一人の教師が辺野古の闘いへ、カンパした人にはFAXで現地報告、再編成の中で辺野古の歴史が見えるでしょう。報告記録。旧「宝の海」公開。
教室と辺野古私は、この日記をカナダバンクーバー行きのJALで書き初めている。辺野古に関する雑多な処理に追われながらの旅であるが、退屈のなかで教師の自分を回想している。
帰国の7月2日には恒例のリーフチエックなど海の調査が満杯で待っている。
私は定年退職に当たって『我が沖縄総合学習三八年―腰掛一つで刻む』の出版を企画、草稿原稿すべてを完成させたものの、03年末から那覇防衛施設局がボーリング調査の手続きに入り、退職願書を持ち歩く生活に入る。ヘリ基地反対協含め多くの団体の努力で公共用財産使用協議書の許可は4月6日まで延び、無事定年退職となる。
私は教師38年木製の腰掛一つで歩み、腰掛を持って、定年退職の挨拶で「第二の人生は生きながえることではなく、太く生きること。私は国民の税金で生活し、多くの知識を得た。第二の人生は国民に還元する道を歩み、稲嶺知事と岸本市長の基地政策に勝つ人生に向かう」と生徒と教師に述べ、その一部(腰掛)は琉球新報「ハイサイ」(3月31日)に紹介されている。
定年退職3年目、5月30日、閣議は軍民共用空港の廃止を決定した。私は生徒との約束を果たしたことになるのだが、新沿岸基地建設計画(悪魔の要塞基地)の中で、「第3の人生は」は沖縄の世界化の道とHpで宣言し、バンクーバーの旅はその第一歩である。
大西 照雄(名護平和委員会)
ゆがんだ教師の顔私の辺野古へのこだわりは、教室での授業実践を「国民に還元する」、ゴルフなど遊びはすべて好きだが退職教の行事に参加できないでいる。私の授業作成は「地域に根ざし」て、教科書を沖縄で組み替える。
1968年高教組第一次教育研究集会が開かれ講師に森田俊男氏、すでに、明治教育新書で『国民教育の創造と沖縄問題』など出版、交流の夕べで席を同じくして大宜味村の村政革新同盟、嵐山事件を話し合い、意気投合する。30年経って全国高校生平和集会(96・97)と共同の仕事をすることになる。
この教研で提出したレポート「母の履歴書―母が語る歴史」が残っている。ガリ版刷りである。当時、那覇商業高校社会科は岩波新書『沖縄』を生徒全員に購入させ、沖縄を教えていた。生徒に家族の歴史を年表にさせ、父母の戦争体験、教師の戦争体験を重視していた。その中に、私より少々年配の教師に戦争体験を聞いたら怒りで震え、私が驚いた記述がある。
30年経って、安仁屋政昭氏が「ひめゆり部隊」に反対した3人の教師の話をした。「怒り震えた」教師の父親であった。
「母が語る歴史」の一部は『総合』に収録しているが、当時は「語らない」「語ろうとしない」「語らせない」(『概説沖縄の歴史と文化』沖縄教育委員会)の時代であった。 生徒の提出した膨大な年表と記録は存在しない。
沖縄総合学習へ1970年代の末から80年代初期、辺土名高校では「沖縄総合学習」として1学年で沖縄戦(ガマ、平和資料館)、基地、文化(「執心鐘入り」鑑賞など)を入れた野外学習、今日の沖縄修学旅行の草分け的実践であったと自負している。
高校再編成下の学校作り、沖縄国体にかかわり、しばらく離れるが、宜野湾高校では嘉数台地を拠点に全クラス、南部・中部含めて生徒を学校バスに乗せて回る。
この実践の過程で得たものを『沖縄の太陽物語』(1995年末日)と出版する。宜野湾高校の角にある竣工記念碑ポケット公園は1時間の授業内容になる。先日、久しぶりに、竣工記念碑で沖縄平和ネットワークに授業してみた。
嘉数台地などの授業記録は立命館大学土曜講座シリーズブックレットⅠ『沖縄・安保・憲法』に収録されている。
名護に帰る。教員最後の勤務校名護商業高校の学習拠点を沖縄愛楽園に定め実践に入り(『歴史と実践』 号、『歴史地理教育』などに報告)、組合運動から身を引き平和委員会に社会活動を置き、授業と市民運動を一体化させる。宜野湾高校以来の文化学習を『啄木と沖縄』(2000年)にまとめる。
ジャルマ島はしゃれこうべと塩水愛楽園学習を「最近、私は子どもたちと屋我地の沖縄愛楽園を学ぶため、屋我地大橋の「逃れの島ジャルマ島」の碑「魚ならば海にももぐりて生きん、鳥ならば空に舞い上がりてものがれん」をはじめ、青木恵哉頌徳碑の礎石にはめ込められた10個の石の前に立つ機会が増えてきています。屋我地に泉正重(戦前の無政府主義者)を再び発見するとともに、羽地湾に浮かぶ向こうに横たわる嵐山に、若き日の上地一史(元沖縄タイムス社長、嵐山騒動の指導者の一人、生前にお会いして証言をと思っているとき不幸な死)のことが頭を横切り、屋我地の地に立つ碑や戦争遺跡をコツコツとメモする自分を抑え切れないでいます。
ときに、県内のマスコミでは、らい予防法で隔離された元ハンセン病患者たちの国家賠償訴訟のニュースが多くなって来ました。(略)私や子どもたちはハンセン病者たちが平和の礎に刻銘されてない事実を学びます。また、<悲しみの浜><嘆きの浜>(生徒が命名)と称される屋我地の白い砂浜には人間の心の叫びが沁み透り、屋我地の島に鳴り響く<希望と自信の鐘>には現代のヒューマニスとたちの心が込められていると思います。(略)愛楽園のスコア・ブランド公園などに埋もれている人間愛は、ローカルな教材によってグローバルな人間愛を子どもの世界へ広げる価値を秘めています」と記録する。(『啄木と沖縄』あとがき0年3月)
生徒たちはガイドの松岡和夫牧師に「どうして裁判に加わらないの」と質問、沖縄愛楽園はやがて最大の原告団を組織、「国家賠償訴訟」の強力な役割を果たし、判決は憲法学習の重要な教科書となる。
この年、これまでの校長は愛楽園学習を評価した。判決は政府や国会政治家を裁くものであった。野外学習が終わってあと新聞に載った。校長が注意処分といきりまく、広まり始めていた愛楽園学習が停滞、ライ予防法廃止10年、判決5周年の節目で再び高校生の動きが見える。
平和の文化は人権、文化及び宗教の多様性の寛容と尊厳を含むものだ。
この間、武田製薬薬草園の遺跡、資料保管などの戦争遺跡を明らかにし『仲村梁仁王虐殺の碑を訪ねて』などのメモを発表する。
『沖縄の太陽物語』(95年7月あとがき)「この基地(普天間)を返還させて沖縄一の街を作ることが21世紀の君たちの仕事になる」は、普天間基地返還と辺野古移設反対の運動に向かう実践的な行動の原点になる。
少年の頃の原体験と辺野古私にとって辺野古は、学校での授業実践の延長線上の世界である。
私は地球規模で辺野古問題を捉えるとき、
① 地球保全と生物多様性に満ちた地球を保育する21世紀
② 平和の文化を築く21世紀
と、学校での授業に捉えてきた。
1,972年の沖縄返還は、沖縄振興計画により自然破壊と沖縄をコンクリートで固める始まりであった。世界的には「人間環境宣言」が採択され地球サミット(1992年)への20年は地球保全、生物多様性などの稀少生物の保護についての諸条約が成立する。
私は80年代からヤンバルの森の破壊、比地・奥間川ダム建設反対を「論壇」で展開、ヤンバルクイナの捕獲は私の農園であったこともあって「9月17日」を「クイナの日」と提言し、ヤンバルの自然破壊に警鐘を鳴らしてきた。ヤンバルクイナなどの稀少生物の危機は現実的にマスコミの紙面・映像となっている。
私の幼年期から青年期は、森、川、海などが生活の場であり、生育史の原体験は自然を「観る」原点である。「森は海の恋人であり」「イノーと環礁は川と海の動物たちの、恋の場」である。この生育史も『学習』に収めるつもりであった。
平和の文化への道1995年9月、少女暴行事件が起こったとき、私の世代が想起したのは40年前の9月の「由美子ちゃん殺人暴行事件」であった。小学校5年、担任の知花芳子先生の「由美子ちゃんの唇はキリリとしまっていた」を理解できるようになるのは青年になってであった。私は知花高信・芳子夫婦からかわいがってもらった。群島知事選挙(1950)に校長であった知花先生は村八分に逢い、民連時代には立法院1区から立候補し、破れながらも、校長として尊敬を集め現在も元気である。
地域に根ざし教科書を沖縄で組み変える作業には、教師が「行って、見て、聞いて、確かめる」ことが大切で、『沖縄の太陽物語』出版一月後に少女暴行事件が起こる。
翌年、全国高校生平和集会、アメリカ行動の中で、私の中に「平和の文化」の概念が芽をだしアメリカ報告「沖縄の抵抗はアメリカ独立の思想と同じ」(国際法律家機関誌、歴史地理教育「月報」『愚直―辺野古からの問いー沖縄非暴力の心』収録)に平和の文化が確立される。
1999年9月国連総会は「平和の文化宣言」と行動計画を採択した。暴力の世紀から非暴力の時代へ、戦争の世紀から平和的解決の時代へと「現代社会文化編」に平和の文化を加えた。今年は「平和10原則」を確立したバンドン会議50周年の年に当たる。現代社会平和の文化の授業は、ガンジーの非暴力、平和五原則、アジアアフリカの台頭、沖縄の武器なき闘い、阿波根昌鴻(伊江島土地闘争の指導者)の「5本の指」の思想と非暴力主義、瀬長亀次郎(沖縄人民党委員長)の不屈の抵抗、仲宗根政善(映画「ひめゆりの塔」の引率教師のモデル)の絶対平和主義などの生き方は「平和の文化宣言」に吸収され、21世紀の人類の目指す方向を示す。ブッシュの戦争は平和の文化確立の過度期で20世紀的遺物である。
だとすると、辺野古の闘いは完全非暴力でなければならず。テント村には故阿波根昌鴻翁の写真を掲げ、海上での闘いもカヌーを主力とした非暴力を貫いている。「平和の文化宣言」のシンボルマークと「5本の指」の思想を対比してほしい。地球の片隅の実践的な生き方が見事に吸収され、地球を包みはじめている現実世界がある。
東アジア会議は東南アジア友好条約の紛争の平和的解決を承認することが参加の条件である。(『歴史地理教育』06年2月号)
5本の指の思想平和の文化は文化及び宗教の多様性の尊重、寛容を含み、辺野古はあらゆる宗教者が共同の闘いを築きあげた。阿波根昌鴻の「5本の指」の思想は「非理法権天、どんな非道なことも理性を持ってあたるなら、勝つことができます。しかしその理性も法の前には歯が立ちません。そしてその法も、時の権力は自分に都合よく変えてしまいます。けれども天は見ています。天とは何か、それは、私達一人一人は小さく、その立場も、また、形もそれぞれ違うものでありますが、そんな私たちが、この指のように団結し、力をあわせていくならば、どんな困難であっても、勝つことが出来ると信じております。日本の平和憲法を世界の平和憲法にし、すべての人が幸せに、そして平和に暮らせる日を実現しましょう。」(拙著『沖縄の太陽物語』より、1996年5月15日メッセージ)
バンクーバー基地分科会
発言メモ<一部>1972年5月沖縄返還が実現する。だが、「核も基地もない沖縄」の願いは踏みにじられ、在日米軍専用基地75%が沖縄に集中、国連人権委員会の調査は沖縄差別と報告する。
1995年9月、海兵隊兵士3人による少女暴行事件が発生、沖縄県民の日米両政府の「軍事的植民地支配」への抵抗運動が再び燃え上がり、世界一危険な海兵隊航空基地「普天間」を返還することになった。それは、沖縄県名護市辺野古に海上基地を建設する条件付返還であった。名護市民はヘリ基地反対協議会の市民組織を結成、市民投票条例を制定、海上基地(1500M)を拒否する。
にもかかわらず、日米両政府は再び「群民共用空港」(2600×730M)の巨大軍事空港を環礁とラグーンに埋め立てる建設を強行してきた。
ヘリ基地反対協議会と名護市民は環境アセスメントの事前調査(ボーリング調査)を実質的基地建設と捉え、ボーリング調査阻止闘争でテント村を建設、座り込み(04年4月19日~現在800日)に入り、海上ボーリングヤグラの座り込み(04年9月~05年9月2日)が展開される。
沖縄民衆の日米両政府に対する60年の闘いは、「命が宝」の心と「武器なき闘い」であり、私たちの武器は完全非暴力と「5本の指」の団結の思想である。海の闘いは非暴力のシンボルカヌーである。私たちの闘いは5本の指が協力するように沖縄の多くの市民団体が包み込み、国内・国外の世論の支持を得た。
アメリカの「生物多様性センター」と弁護士たちは国防省を被告に「ジュゴンとヤンバルクイナ」の自然の権利裁判で400自然保護団体の支援を得ている。地球の片隅の、沖縄の闘いは、平和の文化を築く21世紀の人類の連帯・共同行動である。
私たちは1年半近くテント村に座り、海上のボーリング櫓と船に座り込んだ。3ヶ月間は金網を2重に張りめぐらされた「人間鳥篭」となったボーリング櫓を「極上の海上ホテル」と24時間耐え闘った。女性はトイレのない「ホテル」で屈辱に耐え、再び、平和の文化と非暴力の行動は勝利した。だが。しかし。
日米政府は米軍再編成の中で、今度は実践的航空基地と軍港を結合した「悪魔の要塞基地」を海兵隊基地キャンプシュワブ(現在大半がイラクのファールジャで作戦)の沿岸と海上に建設することを合意した。
沖縄は日米政府の軍事植民地ではない。
建設予定地は、広大な環礁とラグーンの海であり湿地をなしている。豊なサンゴと海草は生物多様性に満ち溢れウミガメとジュゴンはシンボルで、海と川の生物たちの恋の場である。海の恋人といわれる森は、「東洋のガラパゴス」と称され照葉樹林の密林を形成、稀少生物の宝庫ですが、海兵隊の訓練基地でヘリポーと基地建設の予定地である。
私たちは「悪魔の要塞基地」に三度勝つ計画を持っています。その一つは、海は地球の人々結んでいます。平和の文化とかけがえのない地球の保育は、21世紀の人類の営みとして、地球の片隅の共同実践で成し遂げられる国際的責務だからである。アメリカの戦争と基地問題は地球と人類を不幸にしている。来年3月、エクアドルで開催される世界基地大会を成功させましょう。私も沖縄から仲間を連れて参加します。赤道直下の太陽の輝きに思いを寄せて。
(基地分科会UBC102号室、英文報告)
街を歩く カナダオリンピア山脈の残雪が緑の街に浮かび雲ひとつない空はさわやかな風、白夜の夕暮れは汗ばむ陽光が9時まで太陽の中である。空港から開会式へ、
翌24日、平和メッセンジャー都市国際協会国際協会(IPMG、加盟都市170国、1385都市加盟)・平和市長会議開会総会に参加、大バンクーバー市長(24自治体)
ジャクソン女史は平和に生きる権利をウイルソン大統領の4つの自由を引用して、自治体及び自治体首長が、核廃絶、軍事優先の社会的、環境への影響、持続的開発の調和(新経済秩序)などはにかかわることは重要な義務で、自治体と軍事に関する鋭い発言は「防衛政策は国の専権事項」とする日本の自治体とは違い、軍事費削減は自治体の重要で基本的施策述べていた。硬い課題に先住民の文化、世界各地の市民合唱団がオペラ劇場に平和の文化と文化の多様性の試みが企画され、感動的場面では全員が起立して拍手を送る。日本の文化にはない世界である。
パレードに入る。フランス式デモで日本原水協も英語の横断幕,平和委員会は(okinawa iwaguni、zama no bases in japan)の横断幕で参加、1万約5千人がデモ、終点のビーチ公園では反戦の母シーハンさんが挨拶をした。面白いのは、市民の賛同者は必ずクラクションの鳴らす。空は雲ひとつ見えない雪の帽子をかぶった昼間は冷たいが5時ごろになると暑くなり面白い。24日のアジア会議の会議など多様な分科会の設置は貴重であった。25日は「憲法9条、平和のための人類共通の宝」がテーマで、沖縄でも知られるジョセフ・ガーソン氏等がコーディネイターに名を連ねている。バンクーバー在住の乗松聡子女史(コロンビア大学UBC講師)が「バンクーバー9条の会」の活動の具体的な報告があった。休憩の前の質問時間に発言保障をもとめ了解された。パネラーの発言時間が長く終了30分前になってもパネラーの時間、発言を諦めた。終了時間になって1分の意見提案、しかも、私に優先権がなかった。発言を留保した。
私のメモには1)「われわれ日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」(日本国憲法全文)の日本国民には沖縄県民は入ってない。①これは日米政府への抵抗権の源泉である。②この憲法の不幸の源泉でもある。だが、沖縄県民にとって日本語憲法は「輝くティーダ(太陽)」であった。ティーダは慈悲深く降り注ぐ太陽、権力としての太陽ではない。太陽の向こうは深い闇の世界。1955年9月、私と同じ生まれの少女が、殺されナイフで裂かれレイプされた。犯人のハート軍曹は無罪であった。太陽は沖縄の少女の血に降り注ぐことはなかった。
私の先生は「少女唇はキリリと結んでいた。少年の中に人間尊厳、平和に生存する権利、抵抗の心が芽生え米兵を拒絶する。
ティーダは朝日茂、恵庭、長沼の人々ともに輝きだした。
憲法9条の今日に至る歴史は、沖縄と関係を持って、法制的にも日米同盟に従属されてきている。これを断ち切る理念なくして9条を誇りとする事が出来ない。
2)私は800日以上、辺野古に座っている。最近は毎日来る人々に憲法を講義している。反戦のリボンが結ばれた有刺鉄線の基地の中に「日本国憲法によって制定された法律で罰せられます」の看板が教科書だ。英文には「constitution」がないのだ。わたしの講義は「この看板に屈辱を感じませんか」の質問から始まる。この看板の道は、日本国憲法、そして、改悪された「新憲法」(絶対に阻止する)は日米同盟に従属させられる宿命を警告している。この看板は「日米同盟への未来」(中間報告)以後、立てられた。
憲法問題は「9条」は一致点で幅広い運動(輝き)を持ちながらも日米同盟の矛盾、「3兆円」(例)も一体化しないといけない。 多くの人が第二次世界大戦の日系人を収容所に押し込めたことに触れていた。沖縄の基地も沖縄県民を収容所に入れて現在の沖縄基地の90㌫はできる。米国政府の違法性に提訴権を持つのである。過去や本質に目をつぶっては、「なぜ日本は平和憲法持ちながら米軍基地にお金出す」の質問に国内的にも国際的にも答えられない。
私はティーダとしての憲法、基地で蹂躙されている憲法の二つを伝たかった。私には1分で述べる能力はなく、発言拒否を行なった。
私はグリーンピース「虹の戦士号」が辺野古支援に来たときにもヘリ基地反対協の完全非暴力の方針に従い、逸脱したら帰ってもらうことを条件にした。
28日「イラク戦争」分科会に出る。パネリストは参加者の発言を保障するために基調報告を守った。ガーソン氏は明確な舵取りをしていた。発言者はマイクの前に列を作り並び淡々と意見を表明した。名護の市民集会の1分スピーチと同じだ。岩国でも市民が意見を表明し明確な意思を確立した。理念問題ではなく具体的実践と明確な自己戦略の提起であった。
平和政策は自治体の柱平和フォーラムは、03年ブッシュのイラク侵略に、バンクーバー市議会は「平和と正義委員会」立ち上げ、同市の提唱で開催、6日間で350余の分科会と行事が組まれ、
平和と経済
社会正義と平和」
環境と平和
文化と平和
の糸で結ばれ世界の自治体とNGOが共同の世界を生み出しつつあり、バンクーバー 市長(女性)は世界各地の自治体の参加を呼びかけた。それは学者や文化人の独占物ではない草の根の世界である。
カリフォルニア州プレザントン市長ジェニファー・ホスターマン(女性)さんは、ブッシュ政権の核先制使用計画を激しく批判「核兵器を振りかざしている人たちは、それを利用して石油を独占しようとしています。核兵器開発にかけるお金を、病気をなくすため、子どもの教育などに使うべきです。世界中で核兵器の使用に反対していかなければなりません」と平和の問題は自治体の重要な柱であることを強調した。
25日アジア地域のブースに出る。南アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの地域会議も開かれ、核兵器に関するいくつかの分科会、集いなど、26日は「日本国憲法は人類の宝」の分科会を中心に動く。
27日、午前「軍事基地反対運動」全体会議、トルコ、プエリトルコ、韓国、」キュウバ、エクアドル、ギリシャ、カナダ、アメリカなど日本平和委員会は沖縄、岩国、座間がパネリスト、発言は前述ですが時間内に話せなかった。英語の力つけたい。
閉会集会。ピースボートが沖縄スピーチ、文化行事はエイサーのフィナーレで象徴的であった。
軍隊化した警察の中で宣言の発表、平和委員会は外国軍隊の撤退、米国の海外基地の撤去、国連憲章を宣言に入れることを求め確認した。川田国際担当と平和運動、原水禁運動での基地問題の欠落と重要性について所見を話し合った。やはり宣言原案に外国軍隊の問題が欠落、川田国際担当は奮闘して外国軍隊の基地撤去を宣言の中にぎりぎりの段階に入る。川田国際担当が事務局に行って宣言文を点検、欠落、確認要求、エイサーのこだます白夜の果てしなき青い空に外国軍隊基地撤去の確かな英語のスローガンが読まれる。国際ロビーの面白い世界を体験する。
それとともに、米国内の米太平洋艦隊の主要基地で「軍隊化した警察」の中で非暴力の反戦行動で逮捕されても行動している市民、知識人の存在は驚きと共感であった。定年退職を前に退職願書を持っていた自分に写った。私は石川啄木の評論の「議論の時代は過ぎた実践の時代だ」をホームページに引用している。米西海岸の市民と日本平和委員会との交流が8月下旬にワシントン州で行なわれる。
今日の沖縄の情勢は残念ながら「軍隊化した警察」の状況が意図されている。
政府が新しい弾圧法を制定する意思を表明しているとき、逃げるのか。日本を「犯罪国家」にするのか。選択が求められる。平和のための罪名を尊い文化とする価値観、「平和と正義」の溢れる文化価値を築くことだと、バンクーバーでの外国の発言は現在の日本に示唆するか。(バンクーバーにて)
あとがき 7月1日、深夜家に着き、新聞を開き、小泉首相の「世界の首脳でブシュ大統領ほど心に感じ、友情を感じ、信頼、協力してきた首脳はいない」発言、自由と民主主義の日米同盟はグローバルな戦略への従属である。バンクーバーで日本の平和運動(憲法含む)に日米同盟打破、米軍基地への闘いを強調したが、日米首脳会談はグローバルな「自由」の一体化の道を確認した。
日米同盟の原点はサー条約と安保条約である。日米同盟の変遷過程には沖縄基地がいつの時代も利用されてきた。憲法の日米同盟への従属も基地の機能強化と無縁ではない。自治体とNGOの平和フォーラムに外国軍隊の撤去が入った意義は少なくない。来年3月エクアドルで世界初の基地問題での国際会議が開催される。
英語の勉強、幼稚園から始めなければならないと痛感する。(06年7月2日記)
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