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ジュゴンと藻場(3)ー再編成合意と啄木碑

加藤登紀子さんテント村訪問
  平良悦美さんの話に感動して写真撮る登紀子さん
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 海の草原の道?
  ジュゴンの食み跡(ジュゴントレンチ)
   北限のジュゴン提供
 海の草原に道ができたように見えます。
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 下の写真は 草原をムチャクチャに
    水陸両用戦車
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  水陸両用戦車
    ジュゴンのえさ場を破壊


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  ジュゴンを撃て
    水中ビデオカメラ
 水面が輝いて見えるでしょう。浅いクチに2個セット、空ではヘリが辺野古への回遊阻み、草原へのクチでは<大砲>、草原には様々な機器セット。今ではこのような表現ふつうになってきた。初期は言い過ぎと言われた。(写真提供東恩納琢磨)
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隠された藻場移植
  泡瀬から知るー無駄使い(3000億円)
    連立政権どうする
     
      棚原盛秀氏から送られた資料
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  手植え移植 1㎡  単価63,000円
  機械移植  1㎡  単価 4、900円
棚原です。
こんばんわ。新しい時代がきますね。宜しくお願いします。

代替飛行場で埋め立てによる海草藻場消滅面積が66ヘクタール。移植の工事値段から価値を出してみると。計算に間違いが無ければ、
泡瀬干潟で大型海草を移植の値段が手植えで、63000円/m2、
海草を1ヘクタール移植するのに6億3000万円/ha
66haでは415.8億円。移植保全は到底無理です。
準備書によると辺野古周辺の現状海草藻場の面積が485.2haあると表-4.45(1)にかいてあります。
海草藻場だけで3000億円の値打ちがあることになります。北部振興策より多いです。サンゴ礁を含めると幾らになるのでしょう。サンゴ礁の海はほんとに宝の海です。
広大な提供水域は沖縄県民に返してほしものです。

鳩山首相・岡田外務大臣訪米
  「日米同盟の未来」「ロードマップ」のころの日記


時代閉塞の日に      
   明日への誓い
  日米同盟ロードマップ合意の日
    啄木碑に立つ

こころよく  
  われにはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なんと思ふ
再編成―政府の強権と沖縄の明日に向けて
     (06年5月1日)日記
1、 生活するものの歌
 私たちは中学校、高校で与謝野晶子や石川啄木などの歌を学びます。私たち沖縄は戦前・戦後とふるさとを離れて本土への出稼ぎ、大学での生活の中で
 ふるさとの山に向ひて
 言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
と異郷にて口ずさみ、沖縄に帰って
   たわむれに母を背負ひて
   そのあまり軽きに泣きて
   三歩あゆまず
そして、愛妻家の今は
   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
   花を買ひ来て
   妻とたしなむ
など、啄木に親しみを持つ人は少なくないであろう。ところで、沖縄に啄木歌碑が建っていること知っていますか。どうして、沖縄に来たことのない啄木の歌碑が建つのでしょうか。中学・高校では教えない石川啄木と与謝野晶子の旅をしてみましょう。
 さて、啄木の歌集は『一握の砂』と『悲しき玩具』、歌の最後に「ー」「。」が付いているのが『悲しき玩具』の作品である。

2、 真教寺の啄木
 那覇市真教寺境内に石川啄木の
新しき明日の来るを信ずるといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー
が建っている。建立は1976年4月13日、啄木命日、建立者は沖縄啄木研究会・山城正忠、ですが、正忠は1949年死亡している。
 1873年(明治12)、いわゆる「琉球処分」で沖縄県が設置され琉球語から大和語への大転換でもあった。琉球には「8886」の琉球の歌、サンシンに乗せ踊る独特の短歌が庶民の文化として根づいていて、
  恩納松下に禁止の碑の立ちゅし
  恋忍ぶまでの禁止やねさみ
は百姓の恩納ナビの歌で、「沖縄学の父」伊波普猷は著書の中で「与謝野晶子女史もこの歌を賞賛したと聞いている」と書き、山城正忠を近代短歌の画期者と評価している。正忠は『紙銭を焼く』(昭和13)を出版、53首は与謝野鉄幹(妻を娶らば才長けて・・)を弔い、晶子を思いやっている歌で埋め尽くされている。琉球の青年が日本の近代思想・文学を獲得する事は琉球差別の中で血を吐く苦闘であった。
『明星』(新詩社)を砦とするロマン主義文学は明治40年代に入ると自然主義文学などの潮流の中で衰退の危機を迎える。その頃、琉球語の文学青年正忠は文学と歯科医を目指して与謝野鉄幹・晶子の新詩社の門をたたき、東北弁の啄木は渋民村を追われ北海道に逸民となる。
 二人の東京での出会いは明治41年7月17・18日、徹夜の新詩社百首会雷雨の夜であった。絶交は翌年4月4日、啄木の有名な「ローマ字日記」、正忠の啄木追悼文「憶―啄木君」(明治45年4月30日『沖縄毎日』)などに鮮明に記されている。
3、 出会いー心安くしてくれた君
 啄木が北海道をさまよっている頃、明星では琉球の末吉安持が長詩(不慮の死2月)、新詩社では北原白秋、吉井勇(命短し恋せ乙女「ゴンドラの歌」)などが去って、正忠は短歌で一定の地位を確立していた。私は啄木上京直後の歌
はるかなる海のかなたの島に似て相見る日なし思いつかれぬ
(『心の花』7月号)に琉球の二人を連想した。
 正忠の「思い出話」「憶―啄木君」「啄木と私」などに「心安くしてくれたのは君(啄木)であった」「啄木は痛快な男であった」「啄木に文学の議論では負けたが、酒は俺が強かった」、啄木日記の正忠はいつも酒を飲んで議論をしている。
 また、日本の辺境出身、中学中退、琉球語と東北弁、両者の東京は暗惨な生活状況で、北の啄木は剃刀、ナイフで、南の正忠はピストルで自殺願望症、自殺未遂を行なっていて、啄木が正忠のピストル自殺を「自棄」になるのではない忠告している。これらの記録などから
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかり事に生くるや」
止せ止せ問答>
など正忠をモデルの一人して読むと面白いと思い、啄木研究家の碓田のぼる氏に会って 「何ゆえに泣くや」
答えぬ
「わが恋のまことならぬを恥ぢて泣く」
(6月25日日記)などの問答歌は、正忠
「夜も昼もわずかうめく」「恋しき人を奪われしゆゑ」
(『明星』4月号)以降に多いのは「興味ある」事となどの研究書をいただいた。
 正忠はじめ、明治・大正期の沖縄の文学青年たちは啄木の影響を受けている。内陸と海洋世界の違いはあるが
  ふるさとの山を思えば一茎の草の香りさへ親しまれつつ
            啄木『明星』41年11号
  ふるさとの海を思へばまぼろしに見えつつ悲しき月夜の鴎
            正忠『スバル』43年9月号
啄木の影響が鮮明に出ていることが解る。
   絶交宣言
啄木は明治42年4月初旬ライバル北原白秋の「羅生門」に衝撃を受け、日記をローマ字にして自己解剖に入る。「ローマ字日記」は啄木の思想と文学の転換となるもので、ローマ字日記を貫く啄木の鉄の心は「一番親しい人から順々に、知っている限りの人を残らず殺してしまいたくなることもあった。親しければ親しいだけ、その人がにくかった」で、すでに、鉄の心の犠牲者1号正忠に「僕は今夜初めて鉄のような心を以って人に対しみた。山城君は失望したよう顔をして帰っていった」と記し(4月4日)、正忠は「君のような惨酷な人にはもう二度と会ふまい」と絶交宣言をする。
啄木は鉄の心の中4月23日「莫復問七十首」作り『スバル』に発表、正忠をモデルの範囲に入れてもと読み取れる作品、ピストルや銃が出てくるが偶然か。正忠は
剃刀をみつめてあれば死は寂し一人であればしつ心なし
(『早稲田文学』明治44年6月「琉球の歌」)を最後に中央文壇から消え沖縄に帰る。啄木「ローマ字日記」と鉄の心に関する啄木研究家の評論、論文は溢れている。ですが、「鉄の心」の最初の犠牲者正忠を論じた評論は少ない。
 正忠の「啄木と私」(『沖縄教育』昭和12年)に、啄木との初対面の印象を「どう見ても気に食わない男」「犯しがたい風格、気迫」の二面を見ていて、「おれは北だ、貴様は南だ、東京の奴等を抑えて」と啄木に盟約を申し込まれる。正忠啄木追悼文では啄木の「薄命の相」を直感している。その啄木が「山城君。君のくにぢゃ、今でも人が死んだら食らうのか」で大喧嘩になり鉄幹が取り直したとある。その頃、啄木は金田一京介の庇護を受けて同室であった。だとすると、金田一京介は東大言語学で伊波普猷と学友であり、啄木は琉球をより知る環境にあったと推測でき、啄木は沖縄の墓、沖縄の旧盆、清明祭、旧正16日などの死者たちとの「共食」を知っていたと思われ、啄木一流の「痛快さ」で挨拶したと思われる。

4、 時代閉塞と明日への考察
 啄木は「ローマ字日記」の鉄の心で自己解析を試み家族観、人生・世界観を深化させ日本を分析し新しい思想と文学を準備する。この時期、啄木と正忠は文学作品を発表してないことも共通する。明治43年は大逆事件(6月5日)、日韓併合(8月22日)など日本を震撼させる事件が起こる。啄木は
地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く
などの作品で、これらの事件を鋭く歌っているが、天皇制国家の完成、国家の強権、帝国主義化の道で文学や思想は「冬の時代」に入る中で社会主義の思想を深めてゆくのでした。
 「労働者」「革命」などといふ言葉を
  聞きおぼえたる
  5歳の子かな。
その前年、琉球においては伊波月城が「日本の詩人が日本の彼岸にへこたれている極東の病夫のために一滴の涙さえ注いだことを聞かない」(沖縄毎日新聞、4月2日)と書き、比嘉春潮は日韓併合を「日韓併合、万感交互、至り筆にする能ず」、大逆事件の判決を「判決の材料により後世あるいは、これを発表することあるや知らず」と啄木と共通の認識を日記に書き記す。
啄木は『時代閉塞の現状』などの評論で「明日への考察」と社会主義の思想を深化させ、「全青年の心が『明日』を占領し時」に新しき明日は切り開けるとした。『一握の砂』の80パーセントはこの時期の作品で埋められている。沖縄の文学青年たちは中央文学誌で琉球を鮮明に歌っていた。
 だが、啄木家は家族中が病魔の巣となっていた。啄木の体はガイコツのようになっていましたが、歌は泉の如く湧き出て、死後『悲しき玩具』となる。
    今日もまた胸に痛みあり。
    死ぬならば
    ふるさとに行きて死なむと思ふ。
死を迎える明治45年正月は、東京市電のストライキで明け、啄木は高熱にうなされながら「国民が団結すれば勝つという事、多数は力なり」と日記に書いている。啄木の死とともに明治は終わり、民衆の民主主義を求める力は大正デモクラシーと高揚する。1922年(大正11)無名青年の徒によって啄木歌碑
やわらかに柳あおめる
北上の岸辺見ゆ
泣けとごとくに
1号が建った。翌年、山城正忠と弟子の国吉真哲は沖縄に第二番目の建立を試みるが果たせなかった。
正忠は大正15年函館立待岬の啄木家の墓を訪ね
船を下りてまず函館に己が身を立ててし思う友の啄木
と歌う。
大正期は諸文学の潮流、社会主義・無政府主義の思想が流入する。沖縄の青年は国家の沖縄差別に悲憤慷慨、歯医者正忠も沖縄の明日のために
車より「歯を守れ」とビラ撒く歌人われもけふは町医者
と歌い、沖縄三蹟の書家・墨絵家であった正忠は啄木の歌を書いて資金を作るなど無産運動に重要な役割を果たす。天皇制国家の沖縄での弾圧は凄まじく
「3・15」天皇制に殺されし若き友ら今も忘れず
(国吉真哲『ゲリラ』)であった。このような沖縄の新青年群像を与謝野晶子は
大海の南の嶋に生ひいでて抑へかねたり烈しきものを
と歌った。正忠が姉と慕った晶子は1942年(昭和17)に他界する。
天皇制軍国主義はアジアへの侵略戦争へと進み、正忠も
風よ凪げ波よしづまれすめらぎ御楯の兵ら船出づる日は
と戦争賛美に向かい、沖縄は「鉄の暴風」の最後の地上戦で20数万余の血が流され、米軍の浮沈空母とされる。                   
5、 政府の強権と青年の「烈しき心」
 私は、SACOから米軍再編成の中、辺野古に新基地を作らさない闘いの中枢にいて、時折真教寺の「新しき明日」碑に立つ。再編成の沿岸案をめぐって「閉塞」という言葉に接する事がしばしばである。
小泉首相は日本を戦争国家に作り変えようとし、憲法・教育基本法改悪、共謀罪、国民への経済的傷みの押し付け、沖縄には特措法含めて国家の強権を発動して沖縄への歴史的、構造的政治差別を強めている。まさに、啄木晩年の「時代閉塞」の感が深まっている。
啄木歌碑を建立した人々は沖縄差別に苦悩、闘った人々である。建立計画から54年の歳月を経た歴史、建立にかかわった人々の苦闘の人生史は「閉塞」を切り開く力を呼び覚ます。
啄木は閉塞を打破する力を、未来の権利者たる「我々全青年が『明日』を占領した時」「国民が団結すれば勝つ」、晶子は天皇制国家の差別に闘いの歌を詠む正忠を「烈しきもの」と評した。
沖縄の啄木歌碑は、日米政府が安保の犠牲をいつの時代も沖縄におしつけてこることに、それぞれの時代の課題に、啄木が全青年に求めた「明日への考察」と「議論の時代は過ぎ実行の時代」を今日も求めているかもしれない。
  こころよく  
  われにはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なんと思ふ
名護市民は普天間基地の辺野古移転に2度勝利した。V字型滑走路を持った「新沿岸案」は、2014年までの計画で建設するという。「こころよい」仕事ではないが、建設断念を「仕遂げる」まで生き、闘い続けることになるか。
   2006年5月1日
回顧
 振興策、再編交付金、市長選挙も負け時代は閉塞、自衛艦投入、金城祐治さん死去、明日を描く材料はロードマップの014年完成のレールを崩すこと、振興策、再編交付金に、まだ、日米政府は電気の灯は消したがローソクの灯まで消してない。消してはならない人の垣根は逆風に耐えていた。毎日毎日テント守るひと。毎日毎日、船上で朝飯トロロソバ食べる時間があった。
明日の考察、啄木の歌から入った。命の極限の中でも「人民」に明日の日本を見た啄木。
前が見えないとき啄木碑に立つ自分を発見する。心の記録を公開することにした。
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プロフィール

Author:teruo024
大西照雄
 1943年 沖縄県国頭村に生まれる
  少年期「草刈照雄」馬を飼育、炭焼き少年
 1955年9月
  由美子ちゃん事件「唇はきりりとしまっていた」知花芳子先生
 辺土名高校入学
  1958年 宮森小学校ゼット墜落事件にショック
  1960年 2年アイゼンハワー抗議デモに参加
      「みんなで大学合格勉強始める」
  1962年 琉大法政学科入る
  1967年 宮古高校赴任
  204年3月末日定年退職
教師としての活動
  沖縄県歴史教育者協議会(採用以来)
   実践報告少なくない
  沖縄平和ネットワーク(ガイドの会)
破られない記録
  沖縄県高等学校教職員組合執行委員連続落選(8期)
  野外学習、嘉数台地、沖縄愛楽園
  沖縄県教育庁呼び出し「指導」、履歴は白

 沖縄県教育教育弘斉会教育論文
  最高賞受賞
 同日本教育弘斎会教育賞(参加賞?)

著書共著
 「平和のための沖縄ガイドブック」(初版)95年
 「憲法。沖縄・安保」立命大学土曜講座ブックレット1-96年
 「語り継ぐ戦中・戦後」05年
  その他
 主著
 「学園に愛とロマンもとめて」93年
 「沖縄の太陽物語」95年
 「沖縄を教えて、語り続けて」97年
 「啄木と沖縄」2002年
 「愚直ー辺野古は問うー沖縄非暴力の心」
 「腰掛一つで刻む38年」(未完)
活動
 名護平和委員会会長
 奥間川ダム反対有志の会、
 やんばるの戦争遺跡ガイド
 ヘリ基地反対協代表委員(1999年~)
   「海の司令官」(総責任者)
 平和丸基金、ジュゴン1号、平和丸船長
 ジュゴン保護基金(ジュゴン裁判原告)
  評価「海でも陸でも、夜も昼も寝ている」
21世紀の地球観
 「平和の文化」築き
  生物多様性の地球の保育
 沖縄生物多様性運営委員
 趣味
魚釣り・パチンコ、野菜つくり、闘いの日常記録撮影
 辺野古の闘い
 「生永らえることでは太く生きること」
 好きな碑文
  「復帰闘争碑」碑文
   真教寺「新しき明日・・・」啄木 

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